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ザ・チェアー(坂上)

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 はじめに椅子があった。

 地は無く、水だけがその永劫性を象徴するかのように流れていた。

 そのとき少女が言った。「孤島の上に、椅子あれ」と。

 その日、僕は仕事で吉祥寺に来ていた。

 仕事といっても、老人介護のような接待でも、抜け出せない就職活動のような営業でもない。音信不通の顧客の調査だ。

 僕は友人と二人で、家具の輸入を行う小さな会社を営んでいる。

 

 僕と彼は大学で出会った。そしてお互いに大学で唯一の友人だった。僕らはサークルに入っていなかったし、ゼミにもほとんど顔を出していなかったからだ。結局それが仇になって僕は半期留年、彼は学校をやめることになった。

 当時、僕らは勉強をするわけでも大学生活を楽しむでもなく過ごしていた。そう、文字通り「過ごしていた」。お互いに理想を語り合うことも、現実を直視することもなかった。そうやって学生生活は終わりを迎え、僕らは再会を約束することもなく別れた。もともと直接会って話す以外のことはしなかったので、大学という共通の目的地が消滅すると僕らが出会う機会はなくなった。これといってセンチな感情は湧かなかったが、代わりに新たな空虚を抱えてしまったような気がした。

 

そんな彼と再会したのは大学を離れて三年が過ぎた頃だった。蜃気楼で何もかもが歪んで見える夏が終わり、冬の乾いた空気が世界をカラカラにしようとしていた季節だ。街中の交差点で久しぶりに見た彼は相変わらず緑色のポロシャツにチノパンというくたびれた服装をしていた。

「ちょっと大事な話があるんだけど、いいかい」と彼はいかにも深刻そうに持ちかけてきた。少し考えてから、そういえばいつもこんな表情で話していたことを思い出した。

 彼が「立ち話って感じじゃない」と言うので、僕らは入ったこともない喫茶店に場所を移した。眼鏡をかけた感じのいいウエイトレスのいるお店だった。案内された席に座り、ポケットからラッキーストライクを取り出そうとしたところで禁煙のステッカーに気が付いた。

「まだタバコ吸ってるのか?」と彼が言った。

「僕はタバコを止めるなんて言った憶えは無いぜ」

「もう街中でタバコを吸える場所なんてほとんどないだろ」

「街中でセックスできる場所もほとんどない」

「君はタバコとセックスしてるのか?」

「抽象的に考えるなら、あるいは」そこまで問答をしてから、彼がため息をついた。

「変わらないな、君は」

 その後、彼は自分が個人を対象とした家具の輸入代行の会社を興そうとしていること、その共同経営者として僕を必要としていることを話した。

「きちんと顧客がつけば、家族を作って食っていくことくらいはできる」と彼は得意げに言った。

「家庭を持つつもりはないよ」

「例えだよ。俺も作るつもりはないさ」

とはいえ、大学を出てからというもの、特にすべきこともなくふらふらしていた僕にとって彼の話は悪くないものだった。同世代の社会人を羨んでいたわけではないが、そうした社会を一度経験してみたかった気持ちもある。

「しかし、街中で僕に会ったのは偶然だろ? もしずっと再会しなかったらどうするつもりだったんだ」

「その時はその時で、その辺の蟻でも捕まえて働かせてるよ」

 

 中央線沿いがいいという彼の提案で、事務所は西荻窪に構えられた。バブルの残り香のようなビルの三階だ。彼の父親から借りたお金を元手に、机やパソコン、接客用のソファーと作り物の観葉植物を買った。そして僕らがお金を出し合ってラジオと冷蔵庫、中古のクーラーを揃えた。

 最初の半年は暇な日々が続いた。個人が相手だから、駅前で大衆向けのビラ配りをするわけにもいかない。事務所に行く、ラジオをつける、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す、ラジオを消す、家に帰る。毎日が繰り返しだ。

 春を過ぎたあたりから、ちらほらと事務所に客が訪れるようになってきた。どうやら彼が前にしていた仕事の繋がりらしい。要するにコネというやつだ。全員が固定客になったわけではなかったが、それでも二、三人とは継続的に契約を結んだ。その後も口コミのおかげで順調に契約は増加し、とりあえず会社としての体を保てるくらいにはなった。

 主に彼は客の相手をして(彼は人からものを聞き出すのが得意だった)、僕は専ら事務作業を担当することになった。人を雇うことはしたくなかったので、できるだけ事業が拡大しすぎないように気を付けた。

 

 隙間というほどマイナーな事業でもなかったが、たまたまそういう商売が穴になっていた時期だったのだ。収益が安定しないという欠点はあったものの、概ね僕らは満足していた。

 そして会社を始めてからちょうど一年後、彼は年下の病弱な女性と結婚した。

 その日は風邪をひいていた。熱はなかったが、頭痛と鼻水が酷かったので友人に言って仕事を早退させてもらった。彼は決まり文句のような労りの言葉をかけてくれた。

 

夕方になる頃にはもう自宅に着いていた。畳が敷かれた部屋の小さなアパートだったが、一人で暮らしている分には困ることはない。むしろ変に小奇麗なマンションの方が落ち着かない。あんまり洒落た部屋だと、知らないホテルに泊まっているような気持ちになってしまうからだ。僕は毎日出張先のホテルに泊まるような人種ではない。

ポケットから鍵を取り出して力をこめて回す。鍵の合いが悪いのが不満のひとつではあった。さっさと布団を出して眠ってしまおう。そう思ってドアを開けた。

「おかえりなさい」

 畳の上には少女がいた。

「意外に早く帰るのね。優良企業なのかしら」彼女は茶色の前髪をいじりながら、まるで最初からそこにいたように話をはじめた。

「それとももう末期? 仕事が無いとか」

 頭痛が酷くなった。

 

「ごめんなさい、勝手にあがるつもりはなかったの」

 少女にはいろいろと聞きたいことがあったが、とりあえず風邪をひいていることを伝えると「暖かいものでも作るわ」と言って狭い台所に立った。

「冷蔵庫、開けるわよ」

「ああ」

 彼女は冷蔵庫の中身を適当に見繕って、その何かをまな板の上でトントンと切り始めた。その音を僕は居間で布団にくるまりながら聞いていた。こうしていると自分がずいぶん遠くまで来たように思えてきた。しかし、ここは自分の家なのだ。

少女はこれといった装飾のない白いワンピースを着ていた。居間からは背中しか見えなかったが、その後ろ姿は腰まである長い髪でほとんど隠れてしまっている。

「でも、私がここに来たときにはあなたはいなかったの」と彼女はいかにも申し訳なさそうに言った。

「それで、部屋に入って待ってたのか?」痛む頭を押さえながら少女にそう聞いてみた。

「いいえ、私は部屋にいたの」

「君はどこから来たんだ?」

「違うわ。私はここにいたの」

「なあ、君は幽霊って信じるか?」

「それは形而上的に? それとも形而下的?」

「君の好きな方でいいよ」

「人の精神的な部分に関してはあまり言及しないことにしてるんだ」

 そこで僕と彼の会話は途切れた。恐ろしく暇な日というのは、会話も退屈になってしまうものだ。

 彼女との会話は困難を極めた。自分の話を他人に理解させようとする意志が微塵も感じられないのだ。

「もうちょっと他人に歩み寄ってみないか?」

 一度、たまらず彼女にそう言ってみたことがある。日曜日の夜、駅前の安いバーで気の抜けたビールを飲みながら手慰みにフライドポテトを食べていたときだ。

「君の言うことは難しすぎる……というよりも、漠然とし過ぎる。言葉の端々におよそ現実味が感じられないよ」

 彼女は不満そうに、手に持っていたモスコミュールの氷をマドラーで突っつきながら答えた。

「わかってるくせに」

 音信不通になった顧客の家は、吉祥寺の住宅街には似合わない古びたアパートだった。無造作に伸びた草木に囲まれたそのアパートは、明らかに周りの小奇麗で無個性な一軒家とは違う、独特な雰囲気が漂っていた。

 目的の住所の玄関に行くまでには、まず人の肩まで伸びた雑草をかき分けて進まなくてはならなかった。そしてその雑草はもれなく前日の雨のせいで酷く汚れていた。ほとんど着ていなかったスーツを汚したくはなかったが、わざわざ着替えて出直す方がよっぽど面倒だった。僕は諦めてモーセになった気分で進んでいった。ただし手動なぶん、モーセよりもアナログだった。

 

 住所のとおり、104号室の前に辿りついた。砂糖のように白かったYシャツは、胡椒のように黒くなってしまっていた。帰るときにまたこの雑草の道を通らないといけないと考えるだけでだいぶ気が滅入った。

 気を取り直して104号室のインターホンを押してみた。しかし、プラスチックのボタンが押しこまれるだけで音が鳴っている様子はない。何度か試してみたが結果は同じだった。表札に名前はないが、新聞受けには何も入っていない。ドアの隙間にいかがわしい督促状も挟まっていないから、夜逃げしたというわけではないみたいだ。一応両隣の部屋も見てみたが、どちらも人は住んでいる。片方からは子供の泣く声が聞こえ、もう片方からは音量の大きいテレビの通販番組の宣伝文句が聞こえてきた。

 仕方ないのでドアを二回ノックしてみた。返事はない。今度は三回ノックしてから、周りに聞こえない程度の大きさで名前を呼んでみた。するとガチャッと音がした。たぶん鍵を開けた音だろう。

 しかし不思議なことに、鍵を開けた(はず)なのにドアが開いていない。本当に鍵を開けただけなのだ。

 こちらからドアを開けてしまおうかとも思ったが、さすがにそれはまずい気がしたのでしばらくそのまま待つことにした。五分くらい経った辺りで、もう一度だけノックすることにした。

「――さん、いませんか?」

 返事はなかった。

 彼が結婚すると知ったとき、僕は驚く体を装いながらも心のどこかで安堵していた。

 彼は本来なら至って普通の人間なのだ。それなのに、大学でたまたま僕と出会ってしまったばっかりに徐行運転を続けてしまった。彼には引け目となっている部分が少なからずあり(それは彼には話していないし、その感情は僕自身のごく個人的なものだ)、彼の会社を手伝おうと考えたのはそうした自責の念もある。

 

 しかし結局のところ、それらはすべて僕の妄想の産物なんだろう。人生ほど個人的なスペースはない。

 彼女は夕方からしか現れなかった。たまに料理をすることもあったが、コンソメスープ以外に美味しい料理を作ることはできなかった。

 現れるときは必ず家だったが、散歩が好きだった。日は落ちていたのでバーか居酒屋で軽く飲むことが多かった。彼女は酒癖がよく、いつも気持ちのいい酔い方をした。

 消える時は唐突に消えた。僕がトイレに行っている間に姿を消すこともあったし、瞬きをした間にパッといなくなることもあった。

 

 そうした彼女の行動は、僕にとってはそれほど奇抜なものではなかった。相変わらず話の仕方を知らない面はあったが、決して僕の予想を超えることはしなかった。そこに彼女の意志があるかはわからない。

 ただ一つ、彼女と一緒に暮らした二年間で一緒に寝たことは一度もない。

「一人っきりの男の話さ。小さな孤島の上で、俺がこの島で一番偉いんだって威張り散らしてるんだよ」

「誰に向かって威張ってるの? その島は男一人しかいないんでしょ」

「人間はね。でも空気は地球上のどこにでも存在しているし、虫や動物だっているかもしれない」

「魚はどうかしら」

「領海というシステムが生きているのなら、魚に対しても威張っているかもな」

「領海が適用されるのなら、その島は国家よ。立派だわ」

 ずいぶん多くの人が僕の前から消えていった。初めての恋人はイヤホンをつけたまま横断歩道でトラックに轢かれて死んだ。高校時代の最初の友人は夢を叶えるために外国へ留学したまま二度と帰ってこなかった。二人目の恋人は何も言わずに田舎へ帰って行った。

 

 彼女は考え事をしているときに親指と人差し指をこすり合わせる癖があった。彼女は細く美しい手をしていたが、親指と人差し指だけは不釣合いに皮が厚くなっていた。

「その癖、やめたほうがいいぜ」僕は落花生の殻を砕きながらそう忠告してみた。

「その言葉、そっくりお返しするわ」

「僕は指をこすり合わせる癖なんてないよ」

「いつまでそうしているつもりなのかしら」

 彼女はいつも長い髪を束ねもせずに過ごしていた。家にいるときも、外に出るときもそれは変わらなかった。

「そんなに髪の毛が長くて、不便に思ったことはない?」

「自分の身体だもの。不便じゃないはずがないでしょう」

 なら結べばいいじゃないか、と彼女に言いかけてやめた。彼女はいつも着ている白いワンピース以外に、身の回りのものは一切なかった。

 日曜日の朝、僕は起きて顔を洗うために洗面台へ向かった。自分の歯ブラシを取ろうとすると、洗面台から彼女の赤い歯ブラシが無くなっていた。僕が彼女に与えた唯一のプレゼントだ。そこで彼女が消えてしまったことを悟った。たぶんもう二度と会うことはないだろう。

 特に悲しいとは思わなかった。それは高校生のときにクラスメイトが転校したときの感情に似ていた。鏡に映った自分の顔を見て、またいつもの癖が出ていることに気が付いた。そろそろ潮時かもしれない。

 

 僕は熱いお湯でコーヒーを淹れ、彼女と一緒にパン屋で買ったクロワッサンを食べた。もう少し台所が広くてもいいな、と思った。

(RKTY’s 坂上稜線)

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