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スタンド・バイ【前】(坂上)

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 男は山に一人で住んでいた。

 

 男はまるで世捨て人のように見えた。体臭は浮浪者そのものだったし、長く白い顎髭は鎖骨まで達していた。衣服は垢まみれの布きれで、枯れ始めた山の木々と同化していた。そういう意味では、男は悟りを開いた仙人のようでもあった。

 

「こんにちは」

 男は長い冬に備えるため、薪を探して山を練り歩いていた。雪こそ降らないが、それでも冬が訪れるという自然の規則はこの山でも変わらなかった。

「……ああ、んっ……」

 男は声を出すのがあまりにも久しぶりで、声の出し方を忘れてしまっていた。何回か痰を吐くように喉を鳴らしてから、ようやく言葉を絞り出すことができた。

「こんにちは」

 その場所は道の途中だった。道と言っても、歩きやすいように整備されているわけではない。山菜が多く取れる。たまに兎が罠にかかる。薪となる枝も、冬を越すことができる分は落ちている。要するに彼の生命が続いていくための道だ。よっぽどひどい天候でなければ、日に一度は必ず巡回することにしていた。それだけが、彼のルールだった。

 男は一度、国が発行する地図でその場所を確認したことがある。その山には名前がなかった。名前がないということは、その存在を他者に認識させることができない。それは創世記の時代から考えても致命的な欠陥だった。しかし、果たしてこの山はそうして他者に認められたいと願っているだろうか? もし仮にそう願っているとしたら、もう少しヒルの数を減らすことから始めるべきだった。

 男はこの山のそうしたストイックな面が気に入った。

 

だから男はそこへ来た。

 

 だから男はそこに人間がいることに心底驚いた。それも、半袖の白いTシャツを一枚、それにベージュの短パンとバスケットボールシューズを履いているような人間がだ。

「今日は寒いですね」

 遠くから見ると、その人物は青年のようだったが、一方で女性のようでもあった。薄い服の下から見える四肢はすらっとしていて、ほとんど筋肉はついていなかった。それは絶えず左足を何かを踏みつけるようにして上下させていた。その度に履きつぶされたシューズの爪先がべろんと剥がれているのが見えた。

「おじさんはここに住んでいるんですか?」

 男は、自分がしばらく社会から離れているうちに人間の生態系がまったく変わってしまったのかとも思った。しかし冷静に考えてみても、彼はまだ三回ほどしか冬を越していない。たった数年であの人間たちが寒さに強く進化するとも思えなかった。

「ああ、一人でね」

 男は気を取り直して、彼(性別はわからなかったが、男の中では“彼”は彼になった)と話をすることにした。

「へえ。寂しくないんですか?」

「いや、特に」

「ふーん」

 それだけ言ってしまうと、彼は顔を下に向けたまま立ち尽くした。左足だけが相変わらず何かを踏みつけていた。

「好きな食べ物ってありますか?」

「……ない」

「嘘だ。ハンバーグとか、カレーとかあるでしょう」

自分の好きな物に文句をつけられたのは初めてだった。最も、それは実際に嘘だったのだが。

 

 男は優等生だった。小中と義務教育を全うし、地元の高校に入学した。男は昔から要領がよく、予備校に通わずに中堅私立大に入学した。大学からテニスを始めた。彼女はいなかったが、サークルの先輩に連れられて風俗に行った。そこで童貞を失った。達成感や喪失感はなかった。時期が来ると、男は黒いスーツに身を包んだ。それは喪服のようにも思えた。見ず知らずの大人たちに、何度も自分という人間についての説明を求められた。自分について考えたことはなかったが、大学はマークシートで教えてくれた。

 ある日、深い虚無と絶望が男を襲った。男の友人が消えてしまったのだ。ただ消えたわけではない。圧倒的に、それでいて完璧にその姿を消してしまった。まるでもともとそんな人間は存在しなかったようだった。しかし、男はその友人のことを忘れなかった。

そうして男は身一つになってすべてを捨てた。次に消えるのは自分だと思ったからだ。一人で住んでいたアパートは引き払い、家具はすべてゴミ処理センターに持っていき、山への片道分の切符を残してすべてのお金を募金した。最後に持っていた携帯電話は、山で最初に行ったたき火の中に投げ込んだ。飛んできたバッテリーの破片で右手の甲をやけどした。

 

「ねえ、この辺に線路があるはずなんだ」

 気が付くと彼は男の後ろにいた。近くで見ると、彼の脚には薄いすね毛が生えていることがわかった。

「こんなところに電車は通らない」

「今はね。でも昔、通っていた」

 男は社会を捨てたが、無計画だったわけではない。この山が古くから無人であることは調べてあったし、ある程度のサバイバル知識は会得していた。計画的に世を捨てたのだ。だからこの辺りに人の手が及んだ箇所がないことははっきりと知っている。効率の良い調査の仕方は、男の受けた教育の賜物だった。

「ほら、知ってるでしょ? 山の精霊さん」

 山の精霊? 悪い冗談だ。

「ここに人のいた跡はない。私の小屋を除いてだが」

「そんなことはないよ」

 ぎゃあぎゃあと鳥の鳴き声が聞こえた。スギの木の上に見慣れない黒い鳥がとまっていた。カラスのように見えたが、この山に来てからカラスを見たことは一度もない。

「あそこを見て」

 彼はまた移動していた。今度は離れた崖の淵にいた。あんな遠い場所にいるのに、彼の声はすぐ隣にいるかのように聞こえた。遠近感が損なわれている。

「橋がある」

 彼は崖の向こうを指差していた。男は正直、これ以上彼と関わりあうのはやめようと思っていた。

 しかし、不思議なことに、男は彼と話すことを楽しく感じていた。社会が嫌になってこんな孤独な生活をしているのに――もっとも、男はそれほど独りでいることを嫌悪しなかったが――、久々に訪れた社会は彼をどうしようもなく興奮させた。

「はやく来てよ」

 彼は手招きをした。男は誘われるまま、ずっと手にしていた薪を放り投げて彼の立つ崖の淵へと向かった。途中、枝を踏み折る度にバキバキと悲鳴が聞こえた。

「ほら、あそこ」

 彼は隣の山を指差していた。その山はここよりも環境が劣悪で、木が一本も生えていない禿山だった。大雨が降る度に土砂崩れが起き、下を流れる川は数日間濁ったままになった。その様は山というよりも子供のつくる泥の城を思わせた。およそ人の住む場所ではない。

 だが、彼の指差す先には確かに一本の線路があった。木でできた橋が禿山の中腹へ架かっている。禿山にはトンネルがあり、まっすぐのびた線路はその中に吸い込まれていた。その線路は定規で引いたように、本当にまっすぐだった。男は崖の下を覗き込んだが、線路がこちらの山にどうやって繋がっているのかは見えなかった。

「ね、あったでしょ」

 男は数えきれないほどこの道を歩いているのだ。確かに毎日この道を通ったからといって、その都度向かいの禿山を観察しているわけではない。何が悲しくて禿山の観察を日課にしなくてはならないのだろう?

 だが、あんな橋は昨日までは無かった。昨日でなくてもいい。一昨日には無かった。一週間前にも無かった。少なくとも、男がこの山にやってきてからは無かったはずなのだ。

彼は腰に手をあてて得意げにしている。まるで自分があの橋を架けたみたいに。いや、あるいは本当に架けたのかもしれなかった。

「あの橋を渡って、向こうの山へ行くんだ」

 彼は目を輝かせてそう言った。左足が再び何かを踏みつけはじめた。

「あんな山に行ってどうする」

「山の向こうに死体がある。それを見に行くんだ」

 男はしばらく考えた。昔、似たような内容の映画を見たような気がした。タイトルまでは思い出せなかったが、枝に刺した肉が火の中にこぼれ落ちてしまう場面と、ブルーベリータルトを吐き出す話は思い出せた。

「その死体をどうする?」

「どうもしないよ。死体は死体のままだ。まさか、それを街に持って行って英雄になろうだなんて考えてたのかい?」

 彼はそれだけ言うと、崖の淵に沿って歩き始めた。

「ありがとう。おかげで線路が見つかったよ」

「なにもしていない」

 彼は振り向かずに左手を振った。その後ろ姿が森の中に消えるまで、男はじっと彼を見続けた。彼が見えなくなると、男は黙って薪拾いを始めた。

 

 冬眠前のクマは凶暴だ。

 (RKTY’s 坂上稜線)

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