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正直なところ、嫌な予感がしないわけではなかった。
父親から、仕事の都合で遠くに引っ越さないといけなくなったと告げられた時――口では平気な振りをしながらも、心の奥底にしまいかけていたものを引きずりだされたような気がしたのだ。
大丈夫、日本は広い。そんな簡単に再会するはずなんてない。
俺は自分にそう言い聞かせながら、すまなそうにしている父親を励ました。うん、引っ越しくらい経験しといた方がいいと思ってたんだって。
でももちろん、その予感は的中することになってしまう。
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「ちょっと」
転校した高校の登校初日。もともと通っていた高校が進学校だったというのもあるけれど、授業のカリキュラムが全く違うので驚いた。
語弊を恐れずに言うなら、授業はかなり退屈だ。まだ一日も終わっていないが、創作物でよく見る転校生の気持ちがなんとなくわかった気がした。高校という入れ物は同じでも、中身は大きく異なっているのだ。
「……え、俺……か?」
だから昼休みになって彼女に声をかけられた時、自分の傷跡を掘り返された気持ちも確かにあったが、旧知の人物に出会えた喜びも微かにあったことは否定できなかった。
「お昼、友達いないんでしょ? 来なさいよ」
「来なって……一体どういう」
彼女は反論しようとする俺の言葉も聞かずに、ずんずんと教室を出て行ってしまった。
俺は少し迷ったが、放っておくわけにもいかず、彼女の後を追うことにした。
彼女は人の波の流れに逆らいながら、階段を上へ上へと登っていった。
俺はその後ろにぴったりとついて、階段を降りていく生徒にぶつからないように注意深く進んだ。まだ俺は高校一年生だったし、この高校の上下関係がどのように機能しているのか知らなかったからだ。
煩わしい話ではあるけれど、転校初日から上級生といざこざを起こしたくはなかった。
一方で、彼女は俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、後ろを振り返ることもなく、また歩く速さを落とすこともなく、ただひたすら階段を登っている。
途中、彼女の肩が他の生徒とぶつかることが何度もあったが、まるでお互いに相手が見えていないように、会釈も言葉も交わさずにすれ違っていった。
俺はその時、言いようのない違和感を抱いたが、それよりもこれから起こる「何か」に身構えるだけでせいいっぱいだった。
最後の階段を登りきった俺達は、屋上の扉の前に立った。空が曇っていたせいもあるだろうが、誰も通らない階段の空気はひんやりとして冷たく、また黴臭かった。
「おい、こんなところで……どうするんだ」
彼女は扉の前でガチャガチャと何かを動かしていた。それがしばらく続いた後で、ガチャンという小気味のいい音を立てて扉がゆっくりと開いた。
「こっちよ。屋上には誰も来ないから」
彼女はそう言って扉の向こうに出た。たてつけの悪い扉の隙間からは、冷たく湿った風が入り込んでいた。
「ま、待てよ! 大丈夫、なのか?」
彼女は俺の言葉が聞こえてか聞こえずか(たぶん聞こえているのだろう)、何も答えずに屋上の向こうへと行ってしまった。俺は半分やけになりながら、屋上に出て扉を閉めた。
屋上はとても広かった。俺達が使った扉以外に出入り口がないのも一因だろう(建築構造的には大丈夫なのだろうか?)。
またベンチや花壇のような設置物もほとんどなく、俺達以外に屋上にあるのは、周囲を隙間なく囲んでいる金網と、風雨にさらされてボロボロになった日時計だけだった。そんな茫漠とした校舎の上に、俺達は立っているのだ。
あんまり広いので、俺は一瞬彼女を見失ってしまった。
そして日時計の向こうで、金網にもたれかかっているところを見つけた。今の今まで気が付かなかったが、彼女の手には若草色のお弁当が入っているであろう巾着袋があった。
(しまった、食堂に行き損ねた)
俺は頭の中でこの高校の昼休みの時間を思い出してみた。
確か、一時ちょうどまでだったような気がするな……とすると、あと三十分くらいだ。その間に、彼女との用事を済ませて食堂に行くことが出来るだろうか?
いや、たぶん無理だろうな……と俺は思った。
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「屋上、出てこれるんだな」
俺は彼女の前に立ってそう話しかけた。屋上は風が強く、彼女はずっとスカートを抑えていた。見た目は体育会系で筋肉質な身体をしている割に、細かい所作は女の子っぽいのだ。そういうところは、俺が知っている時とほとんど変わらない。
「立ち入り禁止だよ」
「え?」
「立ち入り禁止。生徒は入ってこれない。誰も使わないから、誰も整備しない。あちこち苔だらけでしょ?」
確かに、改めて辺りを見ると、床の隙間の至るところにびっしりと苔が生えている。しかし、生徒が立ち入り禁止というのは……どういうことだ?
「でも、さっきお前……扉開けてたろ」
「これ」
彼女はそう言って手のひらを差し出した。その上には複雑な形に折れ曲がった針金が置いてあった。まさか……。
「これで、勝手に開けたのか?」
「そうよ。一度覚えちゃえば簡単だから」
俺には信じられなかった。俺の知っている彼女は、そんな決まりごとを破るような真似は絶対にしなかったからだ。
「変わったな……河野」
俺が独り言のようにそう呟くと、彼女は俺を見てにやりと笑った。
「あなたのおかげよ、谷合くん」
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彼女は俺のことが好きだった。
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