◆
白い灯台は砂浜のはずれ、波で表面が削られた岸壁の先にあった。
確かにそれは灯台というにはいささか小さく、近寄ってみると何か別の建物のようにも見えた。
「昔はこれがたくさんあったんだってね」
理由はわからないが、町長が変わってから、たくさんあった小さな灯台は順々に撤去され、今ではこの一つが残っているだけなのだという。
「まあ、これを見にまた来たいとは思わないわよね」
さっきの僕の言葉で気が楽になったのか、凛も普段の調子が戻ってきたようだ。
「中には入れるのかな?」
僕は表面がひび割れた灯台の周りをぐるっと回ってみた。
入り口らしき扉は僕らがやってきた方角のちょうど裏側にあった。
取っ手には鎖のチェーンが巻きつけられ、さらに南京錠もぶら下がっていた。
「これじゃ無理そうだね」
「どれ? 見せてよ」
僕は凛に見えるように南京錠を指差した。
凛は「ふうん」と言ってから、鎖の先の南京錠を手にとってみた。
すると南京錠は凛の手からするりと抜け落ち、かちゃんと音を立てて岸壁の上に落ちていった。
「おい、壊すなよ」
「違うわよ! 南京錠が勝手に……」
僕は凛の足下に落ちた南京錠を拾ってみた。
南京錠はひどく錆び付いていた。
どうやら凛が手に取った拍子に酸化していた部分が折れてしまったようだ。
「まともに管理もしてないみたいじゃない」
僕は頷いた。
ふつう、町が管理しているのなら、こんなになるまで放置するなんてありえない。
「……と、いうことは?」
僕は鎖のチェーンを手にとってじゃらじゃらと引き寄せてみた。
途中何度か鎖同士で引っかかることはあったが、次第に鎖はほどけていき、最終的には南京錠と同じように扉から外れて地面に落ちた。
「今のは確信犯よね?」
「いや、たまたまだよ。今日は風が強いからね」
僕は重く錆びた扉を開けて、灯台の中へ入った。
凛もため息をつきながら、僕の後に続いた。
◆
灯台の中は暗く、埃っぽく、じめじめしていた。
長い時間をかけてよどんだ空気が僕らの身体にまとわりついた。
一歩進むたびに、靴の裏に湿った何かがへばりつくような感覚を覚えた。
「あ、あれ階段じゃない?」
凛は灯台の壁を指差した。
そこにはらせん状に伸びた階段が灯台の上まで続いていた。
といっても小さな灯台だから、せいぜいアパートの三階くらいの高さだ。
「あれに登れば上まで行けるんじゃないかしら」
「たぶんね。でも危ないんじゃないか? 見ての通り廃墟みたいなところだし、足場が抜けて怪我でもしたら大変だ」
初めて来る町で怪我なんてしたら、冗談では済まない、
まともな病院があるのかどうかすら怪しいこんな町では、特に。
「大丈夫よ。それに臨だって、上に登ってみたいんでしょ?」
ん……そこを突かれると弱い。
僕は確かに、階段を登って灯台の上へ行ってみたい気持ちを抑えられないでいたからだ。
それはしきりに僕を誘う凛も同じはず。
僕と凛の間には、久しぶりに子供っぽい悪戯心が生まれていた。
「……灯台からはどんな景色が見えるんだろう」
◆
僕らは一人ずつ、錆び付いた階段を使って灯台の上に登った。
階段は一歩進むごとに嫌な音を立てて軋んだが、僕ら二人が登るまでは耐えてくれた。
「降りるときのことを考えるとちょっと気が重いわね」
その通りだったが、悪戯にリスクはつきものだ。こうなった以上、仕方がない。
灯台の上部は屋根のあるちょっとした広場のようになっていた。
吹き抜ける潮風が僕らの身体を通り抜けていく。
この広場の天井の上に、灯台の存在意義でもあるライトが設置されているのだ。
広場には長いベンチが二つと、展望台によくある、小銭を入れると見えるようになる望遠鏡が一つあった。
といってもここから見える景色なんて何もない水平線だけ。
たぶんこういうちょっとした齟齬が、観光地化がうまくいかなかった原因なんだろう。
「何にもないね」
僕は手すりに掴まって、水平線の向こうを見渡してみた。
目を凝らすと、遠くの方で船の白い影がちらりと見えた気がした。
「ちょうどいいじゃない」
振り返ると、凛はベンチに座って自分の鞄をごそごそといじっていた。
「どうするんだ?」
「ばかねぇ。これも目的のひとつだったでしょ?」
凛はそう言って鞄の中から大きなスケッチブックと鉛筆を取り出した。
そうだ、僕らは美術の課題もこなさなければならなかったのだ。
「ここのベンチから見える景色、他の誰にも描けないわよ」
それはそうだ。なにせここは立入禁止なんだから。
しかし誰かにばれたらまずいんじゃないか……と一瞬考えたが、こんな場所がばれるはずがなかった。
もう誰もやってこない場所なのだ、ここは。
「じゃあ僕もここで」
僕は凛の隣に座って、同じようにスケッチを始めようとした。
すると凛は険しい顔で僕を見てスケッチの手を止めた。
「ちょっと、ここに座ったら同じ景色になっちゃうじゃない」
まあ凛の言うとおりだ。
しかし同じ場所に来たのだから、今さらそんなことを言われても……と気持ちもあった。
「じゃあ向かいのベンチから、陸の方を描くよ。それでいい?」
凛はそれでも少し渋っていたが、自分でもほかに方法がないことを理解したのだろう。
「仕方ないわね」と言って自分のスケッチを再開した。
◆
その後、僕らは夕焼けを見た。
スケッチに夢中になっているうちに、日が暮れ始めてしまったのだ。
僕は海に背を向けていたので、凛が声をかけてくれるまでそのことに気がつかなかった。
山だって夕焼けに染まっていたのに。
「綺麗だね」
海も空も夕陽の色に染まっていく。
境目がわからないほどに、強烈に。
「臨のお母さんが言ってたこと、本当だったね」
僕はそうだね、と答えた。
僕らは父さんの言っていた灯台の中から、母さんの言った夕陽を眺めていた。
そのことを考えると、自分の中で何かがしっくりと嵌まる感覚があることに気がついた。
そうだ、この町は僕が思っていたとおりの町だったんだ。
今まで漠然としていたイメージを、はっきりと、そう感じることができた。
「来てよかった?」
僕と並んで夕陽を見ていた凛が、ふと思い出したかのように口にした。
僕はすぐにこう答えた。
「うん、よかったよ」
◆
「ただいま」
家に着いたのは夜の9時だった。灯台でゆっくりしている間に結構時間が過ぎてしまったのだ。
僕が玄関で靴を脱いでいると、母さんがリビングから出てきた。
「おかえり。どうだった?」
母さんは心配そうに僕の表情をうかがっていた。
母さんは知っていたのだ。僕の生まれたその町が、僕の名前の由来にもなったその町が、今まさに死に絶えようとしていることを。
だから、僕が興味を持って話を聞いても、ふわふわとしたイメージを投げつけるだけで、写真の一つも見せてくれなかったんだ。
僕が、がっかりすると思ったから。
でも。
「綺麗な町だったよ」
僕は母さんにせいいっぱいの笑顔を見せた。
そして言おうかどうか迷ったのだけど……ここで言わなければ、もう二度と口に出せない気がしたので、恥ずかしい気持ちを抑えてこう言った。
「あの町でよかった」
すると母さんは口を手で覆い隠して、「うん、うん」と何度も頷いた。
母さんと――父さんの、心のしこり。
僕は素直な気持ちで、それを取り除くことができたのだ。
「今度は家族で行きたいね」
「そう、ね……そうしましょう」
僕は泣きそうに肩を震わせている母さんの横を通って、自分の部屋へと向かった。
母さんの背中は、今までよりも少し小さく見えた。
◆
その後――。
夏休みが終わって、美術の最初の授業の日。
僕と凛は、例の小旅行で書いたスケッチを提出した。
僕らはお互いのスケッチを見せ合うことなく、先生に渡したのだけど……。
「お前ら、同じ場所でスケッチ描いたか?」
しばらくしてから美術の先生に、二人そろって呼び出されることになった。
「はい、そうです」
ヘンに言い訳をしてもこじれるだけだと思ったので、僕は正直に答えた。
「……何か、まずかったですか?」
「ん? いや、よく描けてるよ。できれば模範として廊下に飾りたいんだが……」
先生はそう言って、僕らのスケッチブックを広げてみせた。
「これは、あまり他の人の目に触れさせない方がいいかな?」
僕らはそのスケッチを見て、呼び出された理由をすぐに理解した。
僕らはお互いの姿を、スケッチの中に描きこんでしまっていたのだ。
何も打ち合わせもしていないのに、それもちょうど対になるような形で。
「掲示するなら隣同士並べた方がいいと思うんだが。その方が映えそうだ」
「確かにそうで……うっ」
僕が半ば面白がりながら先生に賛同しようとすると、凛に思いっきり足を踏まれた。
「どうした?」
「い、いえ……やっぱりやめましょう。やめた方がいいです。それがいい」
「お、おう、そうか。オレ達の間だけの秘密にしとくか」
◆
美術室から出た僕は凛に引っ張られて屋上まで連れて行かれた。
「何よ、あれ! まるっきり同じじゃない!」
「そんなこと言ったって……同じ場所でスケッチしてるんだから似ちゃうのは仕方ないだろ。先生だって、構図が似てることで怒ってたわけじゃないじゃないか」
「そういうことじゃなくて……!」
「それにスケッチに僕の姿を描き込んだのは凛だって同じだろ」
「~~!」
凛は顔を真っ赤にしながらフェンスの方を向いてしまった。
たぶん今になって恥ずかしくなってしまったんだろう。
相変わらず素直じゃない。
「でも、まあ……旅行は楽しかったよ。誘ってくれてありがとう」
僕がそう言うと、凛は「……もう!」と言って屋上から出て行ってしまった。
僕は屋上で残暑の風を感じながら、僕の生まれた町に思いを馳せた。
たとえ灯台がなくなってしまっても、僕はあの町を忘れやしないだろう。
(終わり)
(RKTY’s 坂上稜線)
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