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アイ・ゲット・アラウンド【後】(坂上)

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 目を覚ましたとき、空はすっかり夕焼けに染まっていた。僕はその事実を受け止めるのに少しばかり時間を要し、恐るべき現状を理解してから腕時計を確認した。僕の左腕は無常にも、現在の時刻が夕方の六時であることを告げていた。僕は確かにアラームをセットしていたはずなのだが……気がつかなかったのだろうか? あるいは波の音にかき消されてしまったのか……。

 さて、これからどうしようか……僕は立ち上がって自問した。寝床は、まあ廃墟のような家があったからどうにかなる。だけど食糧に関してはどうしようもない。今日は朝食のパン以外、なにも口にしていないのだ。もともと小食な方ではあるけれど、かといって何も食べずに生きていけるほど都合のいい身体をしているわけでもない。釣りでもして魚を獲る? でも魚の調理なんてできないし、毒を持っている魚の種類も何もわからない。山菜や木の実にしたって同じ事だ。

 僕は今度こそ途方に暮れた。だいたい水の在り処もわからないのだ。海水を飲んで喉を潤せるものなのかな、と考えたところで、僕の後ろに人間がいることに気がついた。

 

 男だ。僕よりは年上だが、まだ若い。彼は僕の後ろ……ちょうど砂浜と道路の境目の辺りに、僕と同じような体勢で寝転がっていた。起きているのか寝ているのか、ここからではわからない。彼の脇には編み上げのカゴが置かれていて、中には山菜や魚、きのこがぎっしりと入っていた。つまり……彼はここで暮らしているのだ。

 僕は半分ホッとしながらも、もう半分に恐怖を感じていた。彼は確かに人間だ。四肢はあるし、きちんと服も着ている。呼吸に合わせて体も(微小だが)動いている。でもそれは、まるで僕の知っている人間のまとう雰囲気とは別のものを持っていた。そしてそれは彼が急に起き上がって僕と目を合わせたことで確信となった。

 彼は立っている僕の姿を目にすると、にこりと笑ってこちらに近づいてきた。僕は蛇に睨まれた蛙のように、その場に立ち尽くした。僕は後ずさりをしないように、必死に頭の中で(ここで逃げてもどうしようもないぞ)と自分に言い聞かせた。

「こんにちは」

 彼の第一声は挨拶だった。僕はほとんど反射的に「こんにちは」と返した。

「やっぱりこの時間も、挨拶は”こんにちは”だよね」

 彼はそう言って満足そうな表情をした。僕はまだ彼の挙動に警戒していた。いざとなったら、食べ物だけでも取って走って逃げてやるくらいの気概だった。

「さて、じゃあ暗くなる前に帰ろうか」

 彼は僕に背を向けて歩き始めた。僕は拍子抜けして、歩いていく彼の背中を見ていた。

「何してるんだ? 砂浜の夜は冷えるよ。早く家に帰ろう」

「家は……」

「わかってるよ。俺の家に来なよって話だよ。この辺は俺以外に住人はいないんだよ」

「え、でも」

「まあ、一人でサバイバル生活をしに来たっていうなら止めないけど」

 彼はそう言ってまたにっこり笑った。

 

 

 彼の家は砂浜から程近い林の中にあった。白いペンキで塗られた古臭いコテージ。その白さは夕闇の中であってもはっきりと自身の存在を主張していた。

「昔さ、この辺はリゾート地だったんだな。バブルの頃の話。綺麗に残ってるのはこの家くらいだけどさ」

 彼はどこかの金持ちが捨てた別荘を買い取って、ここに住んでいるという話だった。僕は家に入る前に服についた砂を払った。ぱらぱらと砂の落ちる音がした。彼は僕が砂を払い終わるまで玄関の前で待っていた。

「床の板が結構軋むけど気にしないでね」

 彼の言う通り、家の床板はよく軋んだ。僕はうっかり床を踏み抜かないように、そろそろと歩かなければならなかった。一方で彼はそんなことは気にならないのか、ずんずん板を軋ませながら家の中を歩いた。

「使ってない寝室が一つあるんだ。いわゆる客間。きちんと掃除はしてあるから、まあ泊まる分には問題ないと思うよ」

 彼は僕を奥の部屋に案内した。六畳ほどのこじんまりとした部屋だったが、埃っぽさも潮の匂いもせず、ベッドの白いシーツも相まって清潔な印象を受けた。

「電気が通ってないからさ、本当に真っ暗になったら机の上の蝋燭を灯してくれよ」

 彼はズボンのポケットから新品のマッチ箱を一つ取り出して蝋燭の脇に置いた。やはり……彼が新品のマッチを持っているということは、彼が電車を使うのだ。たぶん、この街で唯一の乗車客なんだろう。

「じゃあ、これから夕食を作るから。まあ十五分ってところかな」

「あ、手伝います」

「もちろんだよ」と彼は言った。

 

 台所はリビングと一体になっていた。彼は蛇口をひねって米をとぎ、それを小さな飯ごう二つに収めた。

「水道は通ってるんですか?」

「いや、これは雨水だよ。外のタンクに溜めて、チューブで蛇口に通してあるんだ。ろ過してはいるけど、ま、あんまり綺麗な水じゃあないな」

 彼は米のとぎ汁で山菜に付いた泥を洗い落とした。僕もそれに倣って、丁寧に泥を落とした。白濁した水で野菜を洗うというのはあまり簡単なものではなく、僕がもたもたと一つの山菜を洗う間に彼は三つの山菜を洗い終えていた。

 僕は彼に頼まれて焚き火を焚くことになった。料理の知識はほとんどなかったけど、焚き火に関しては幼い頃にやっていたボーイスカウトのおかげで心得があったからだ。僕は彼からオイルを少しとマッチを譲り受け、いつも焚き火をしている場所を教えてもらった。そこはコテージの庭先で、サークル状に囲まれた形のいい石と灰の跡があった。

 僕はなるべく家から離れないようにして、燃えやすい枝を探した。幸い、ここのところ晴れの日が続いていたので乾燥した枝木を見つけるのは簡単だった。その頃にはすっかり辺りは真っ暗闇になっていたけれど、木々の隙間から見える白い家は僕の居場所を的確に教えてくれていた。

 

 

 夕食が済んだ後、彼と僕は何をするでもなく夜空を見上げていた。木々の枝に遮られて夜空は都会と変わらないくらい狭かったけれど、星の瞬きは明らかにその性質を異にしていた。

 

 ――どのくらい沈黙していただろう? いつの間にか、彼は時折思い出したかのように焚き火の火を長い木の棒で弄りながら、虚ろな瞳で何か独り言のようなものをぶつぶつと呟き始めていた。今の彼はさっきまでの頼もしい年上の青年と同一人物にはまったく見えなかった。初めて彼の姿を目にしたときの違和感と同じものを感じた。

「どうして、こんなところにいるんですか?」

 僕はその空気に耐えかねて、彼に質問をすることにした。「なぜ、こんな辺鄙なところに住んでいるのか」……当たり前の、もっともらしい質問だ。普通の人間なら、こんな都合の悪い(いろいろな意味でだ)土地に住もうとは思わないはずだからだ。

 彼は独り言を止めて、僕の言った言葉の意味を噛み締めるようにうんうんと一人で頷いていた。彼から返答があったのは、またたっぷりと時間が経ってからのことだった。

「皆がそう思うからだよ」

「皆? 皆が、この土地を見捨てたから……ってことですか?」

「いや、そうじゃない。まだこの土地は見捨てられてはいない」

「でも、誰も人が居ないじゃないですか」

「俺以外はね。だけど、一人だとしても、きちんと人が住んでいる。電車だって停まる。君には信じられないかもしれないけどもね、週に一回郵便局だって来るんだよ。駅前にポストがあるからね」

「でも……」

 僕は反論しようとした。だけど、的確な言葉が思い浮かばなかった。彼の言うことの方が、何もかも正しい気がした。

「じゃあ、皆がどう思ってるっていうんですか?」

「だからさ、さっき君が言った言葉と同じだよ。”どうしてこんなところにいるのか”……普通の人なら、そんな場所に人が住んでいるだなんて思わないだろう?」

 彼は笑いながら「特に、僕みたいな若者はね」と付け加えた。僕にはまだ彼の言いたいことがうまく飲み込めなかった。

「君はなぜ家を出たんだろう?」

 今度は彼が僕に質問をした。彼が僕に物を訊ねるのは初めてだったから、少し意外だった。

「都会の空気が嫌になったんです。どこに行っても人間ばかりいて……誰も僕を一人にしてくれない」

「人は嫌い?」

「嫌いとか好きとか、そういうんじゃないです。ただ人の波の中にいるのが嫌になっただけです」

「言いたいことはわかるよ」と彼は言った。「それを踏まえて、人が嫌いかどうか知りたいんだ」

 僕は考えた。パーソナルな感情に因る人の好き嫌いはもちろんあるが、「人」と一括りにされて聞かれるのは初めてだったからだ。僕は自分の周りにいる人々のことを思い出しながら考えた。しかしクリティカルな解答を見つけることはできずに、「わかりません」と答えた。

「ただ、大勢の人は嫌いだと思います」

「それはつまり、大衆ということかな?」

「かもしれません。そこまで大仰なものかはわからないけれど」

 彼はそれには答えずに焚き火に枝を放り入れた。彼の顔の影が炎のゆらめきで濃く深くなっていった。

「家に帰りたいと思ってる?」

「今は思ってません。外で泊まるのは慣れているし……でも、もうちょっとしたら、どうなるかわかりません」

「へえ」

 彼は僕の返答に感心している様子だった。

「きちんと物事が考えられるんだ」

「そんなこと……ないです」

「自分を卑下することはない。君くらいの年頃の子供はね、今の自分の考えが未来永劫不変のものだと頑なに信じているものなんだよ。若さと言えば聞こえはいいけど、それで取り返しがつかなくなることだってままある」

 彼に褒められるのは、そう悪い気分がするものではなかった。

 

 その後も彼とは世間話のようなものをした。その中で、彼の昔の話も少し聞いた。実家が福島だということ、大学に通うために東京に上京していたということ、そのおかげで一人だけ津波に巻き込まれず生き延びていたこと。

「両親の行方さ、誰も知らないんだよ。近所の人や知り合いに聞いてみてもさ。避難所で見かけたって人も居るし、車に乗っていたのを見かけたって人も居る。あの時は本当に皆が自分のことで精一杯だったから、誰も責められないけどさ。それにしたってバラバラなんだよね、言うことが皆さ。俺をわざとおちょくってるのかって思うくらい」

 彼は大学を休学して、両親の行方を探した。しかし一年経っても二年経っても行方はわからなかった。初めは彼に協力してくれたボランティアも、時間が経つにつれて一人、また一人と減っていった。助かった知り合いも、彼に対して「そろそろ諦めたら」という意味の言葉をかけるようになった。

「あなたにはあなたの人生があるんだから、って言うんだ。皆、俺のことを心配してさ。でも、皆には俺の人生がどういうものかわかってない。津波の後から、両親を見つけ出すことが俺の人生になったんだよ。もちろん生産性も何もない。ただの自己満足だといわれればそれまでだよ。でもさ、目的を持った人間の人生っていうのは往々にして他人からは不幸に見えるものなんだよな」

 そして彼はそのまま大学を辞め、人気のないこの場所へと移り住んだ。この場所を選んだ理由は、海が見えることと、誰も自分のことを知らないという二点だった。当初は彼以外にも数人駅前に住人が残っていたらしいが、一人、また一人と様々な理由で街を去っていき(もちろん死んだ人も多いだろう)、今ではもう彼しかいない。

「住人が一人しかいない町なんて考えられないだろう? それに電車も停まるんだぜ? 俺一人のために、町の名前もずっと残ってる。最後に残ったのが縁もゆかりもない人間なんて、皮肉みたいに見えるよな」

 

 

 翌日、僕は彼の作った朝食を食べた後で、家に帰ると言った。

「母さんが捜索願いを出す前に帰ることにします」

 彼は足で焚き火に砂を被せながら、僕に質問をした。

「一つだけ、聞いていいかな」

「はい」

「俺は君のことを気に入っていた。一人の人間としてね、尊敬してすらいた。その歳でまともな考え方をできる人間なんてそうそういない。だから、もし君が俺への同情だとか、俺に気をつかってこの場所を立ち去ろうと思っているんだとしたら、それは大きな間違いだ。もちろん、君が俺のことを嫌いだっていうんなら話は別だけどさ」

 僕は首を振った。「そういうわけじゃないです」

「じゃあ、君がここを立ち去ろうとする理由はなんだろう? 君は都会の喧騒にうんざりして、こんな辺境に逃げ込んだんだろう? これから家に帰って、その雑踏の中で生きていくことができるのかな?」

 僕は考えた。そんなに物事を考えるなんて初めてだと思うくらい、必死に頭を回転させた。でも後でわかったことだけれども、その時に僕に必要だったのは、思考じゃなくて心の機微を言葉にできる直感だったのだ。僕はまだそこに思い至るほど、大人になれていなかった。

「その方がいいと思うから」

 僕はまだ少年だった。

 

 そして僕は彼と別れた。別れ際に、昨夜の焚き火での独り言について聞いてみた。

「あれはね、祈ってたんだ」

「祈り、ですか?」

「いろんなことをさ」

 

 僕は電車が来るまで、駅でたっぷり二時間待った。その間ホームにずっと寝転がっていたので、軽く日焼けしてしまい、家に帰った後で母親に遊んでいたものだと勘違いされてしまった。

 

 

 その後、大学生になった僕はふとしたことで彼のことを思い出し、もう一度会ってみたくなった。僕が当時使った路線は廃線になっていたので、レンタカーを借りて地図とにらめっこしながらどうにか例の狭い海岸までたどり着いた。海岸にはゴミがたくさん漂着していて、昔の静けさは既に失われてしまっていた。僕は嫌な予感を抱えて記憶を辿りながら白いコテージまで歩いたが、彼は既にいなくなっていた。白いペンキは剥がれ落ち、木材は腐り、窓ガラスは割れ、焚き火のサークルを作っていた石は風雨でばらばらに飛び散っていた。ほんの少し――五年も経っていないのに、ここまで荒れ果ててしまうものなのか、と僕は驚いた。

 僕は念のため家の中にも入ってみたが、やはり彼の姿はなかった。もしかしたら彼の死体が転がっているかもと思っていたので、その点では安心した。だが彼の行方がわからないということに変わりはなかった。彼は一体、どこへ行ってしまったのだろう? それとも、両親を見つけることができたのだろうか?

 

 その帰りの車の中で、僕は無性に悲しい気持ちになった。慌てて車を路肩に止めて、ハンドルにもたれながら泣き崩れた。理由はまだわからない。もう二度と彼に会えないのが悲しいのか? いや、そうじゃない。もしかしたら僕のせいで彼が移住してしまったのかもしれないのが悲しいのか? それも違う。じゃあ、どうして――?

 

 今でも僕は、心を言葉に表せないでいる。一体、いつまで僕は子供でいなければならないのだ?

 僕の車の隣を、たくさんの車が通り抜けていく。僕はタイヤの音だけを聞きながら、ただひたすら涙を流していた。

 

(RKTY’s 坂上稜線)

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