彼、谷合悟郎は探偵である。彼は世間一般の探偵のイメージとはいささか異なる風体をしているが、例えば職業は何かと聞かれた時、悟郎はまず間違いなく自身を「探偵」と答える。それに対して失笑する人間もいれば、興味を持っていろいろなことを聞いてくる人間もいる。
正直、悟郎はそういった諸々の対応にはうんざりしていた。決して嘘を吐いているわけではないのだが、やはり同じやり取りを何十回もすれば、人間誰しも嫌気が差してくるものだ。相手に悪気がないぶん、余計に性質が悪い。たぶん、珍しい苗字の人間などは、同じようなやり取りを産まれた時から何回も繰り返すのだろうな、と思ったりもした。
「無職ですね」
しかし、さすがの悟郎もこのような言葉をかけられた時にはいくらかの憤りを覚えるのであった。
「無職だって?」
悟郎はその日、下顎の親不知を抜くために口腔外科に初めて来院していた。そこで診察カードを作る際に、職業を問われた悟郎がいつものように探偵だと答えたのだ。
「はい。職業一覧に、探偵というカテゴリはありませんから」
先にも述べた通り、探偵という職業に対して物珍しい顔をされるのは慣れっこだったが、いくらなんでも無職扱いされるのはプライドが許さなかった。これでもきちんと警察に書類を届け出て、税金だって払っているのだ。それを理由にするつもりはないが、無職というのはあんまりだ。
「探偵という職業は、こちらの病院の診察カードには記入できないと?」
「そうなります」
「じゃあ、代わりのものがあるんじゃないかな? 例えば、自営業だとか」
「自営業ですか」
悟郎は、自営業という響きはあまり好きではなかった。現代では、自営業という字面は相手にタフすぎる印象を与えてしまうからだ。
とはいえ、無職と記入されてしまうよりはマシだ。仮に、そんな診察カードを落としたりでもして、交番に届けられでもされたりしたら、何と名乗ったらいいのだ? 「無職の谷合悟郎です」と言わなければならないのか?
「フリーターということでよろしいですか?」
「……ちょ、ちょっと待ってくれないか。自営業とフリーターは違うよ」
「ですが、診察カードに記入できる職業一覧に自営業はありません」
「だからって、事実と異なる職業にされてしまうのは困るよ」
「一番近いと思ったのですが」
そこで悟郎は受付の女性から診察カードに記入できる職業の一覧を見せてもらった。会社員・フリーター・無職……それだけだ。
「たったの三種類しかないの?」
「はい。三種類になります」
「主婦の人とかは、この無職にチェックを入れてるというわけ?」
「そうなります」
やれやれ、と悟郎は思った。まあ間違いではないのだろうが、無職扱いされて癪に障る人間はいないのか? それとも、そんなことを気にしているのは自分だけなのか? 歯の治療をするために診察カードを作るだけなのに、悟郎はもうへとへとになっていた。
「それで、どうしましょう?」
「わかったよ。無職でいい」
「かしこまりました。それでは無職の谷合悟郎さんで、診察カードを作成いたします」
悟郎はラミネート加工された診察券を受け取った。表面には自分の名前、裏面の職業欄には「無職」の欄にチェックが入っていた。
(無職の谷合悟郎さんね……)
悟郎は実際に声に出されて呼ばれたことで、自分が妙にみすぼらしい存在になってしまったように感じられた。
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