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コールド・レイン(坂上)

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 俺の街では冷たい雨が降る。

 

 君の街ではどうだろう?

 

 

 僕の街に降る雨もやはり冷たかった。指先が震え、このまま凍ってしまいそうなくらいに。

 ただ、僕は彼の住む街を知らない。彼の街の方が、僕の街よりも冷たい雨が降っているのかもしれない。あるいは、彼がとても寒がりなだけか……。

 

 

 毎日、雨が降っているんだ。

 

 身体の芯まで凍えてしまいそうだ。

 

 そのうち、体中の皮がふやけてめくれ上がってしまうかもしれない。

 

 

 人の皮が剥がれるというのは、あまり愉快な現象とはいえない。僕は子供の頃に一度、ちょっとしたことで軽い凍傷にかかったことがある。その時に右手の小指の皮がべろんと剥がれてしまったのだ。まだ幼かった僕は恐怖した。もしかしたら、全身の皮が小指のように剥がれてしまうのではないか、という錯覚に陥ったのだ。

 幸い、皮が剥がれてしまったのは小指だけですみ、その小指も包帯を巻いて一ヶ月経つ頃には完全に治っていた。大人になった今では、皮の剥がれた跡もわからない。記憶の片隅に、瘡蓋のように残っているだけだ。

 

 

 俺の街はとても寒い。

 

 日本みたいに四季がないんだ。

 

 八月になっても冬だなんて、信じられないだろう?

 

 

 彼の街では、今は八月らしい。日本ではまだ六月……しとしとと雨が降る梅雨の時期だ。

 

 それでも、これまでのような涼しい空気はまったくない。まるで雨の隙間から夏の気だるさが入り込んできているみたいだ。蒸し暑さ……彼は日本が恋しいみたいだが、僕にはとても信じられなかった。

 

 

 この街のいいところ……水が美味いこと。

 

 冷たい雨のおかげで、地下水がとても甘く仕上がるんだ。

 

 そして水の美味い街は食事も美味い。

 

 年中採れる山菜が、また美味いんだ。

 

 

 地下水に関して、僕が持っている知識はほとんどない。雨水が長い時間をかけて地面に浸透して、何十年後かに人の口に入る……その程度のことだ。

 とはいえ、食事が美味しいというのはうらやましい。特に山菜は――意識して食べたことはないが――、もろに地下水の影響を受けるのだろう。クセのあるものも多いが、そういう街には然るべき調理の知識が自然と蓄えられているものだ。

 

 

 それに、この街には人がほとんどいない。

 

 家はあるんだ。少しばかりデザインは古いが、建物もたくさん建っている。

 

 だが、人がいないので、そのほとんど空き家になっている。まるで廃墟の博物館みたいなところだ。

 

 

 廃墟……建物の墓場。人間と違うのは、それそのものが墓標となり得ることだ。

 昔、仕事で何回か廃墟に足を踏み入れたことがある。廃校になった山奥の小学校、人口の減少と共に役目を終えた街の病院、開発の途絶したモノレールの駅……理由は三者三様だが、その物悲しさはどこも変わらない。全てのものに唯一平等なものは「死」だと言ったのは、どの哲学者だっただろうか。

 

 

 この茫漠とした雰囲気……お前もきっと気に入ると思う。

 

 どうしても来たいなら、一言連絡してくれよ。

 

 

 人が少ないというのは魅力的だ。なにせ僕は、人混みが苦手だという理由でこんな山奥に移り住むような人間なのだ。知り合いには「まだ若いのに」と止められたが、若いからこそ、先の長い人生を無駄にしたくない。中には「若いうちには苦労をしておくもの」だという古い考えを持つ人もいたが、その苦労に見合った結果が返ってくる保証はどこにもない。責任を放棄しているといえばその通りだが、責任を請け負わない、こういうライフスタイルもあるということだ。

 それに、一見自由気ままに見えるかもしれないが、結局のところ、こうした生き方を許しているのは社会の仕組みの方なのだ。そういう意味では僕自身も、歯車のうちのひとつに過ぎない。ただ他の何とも噛み合わずに、孤独に一人で回り続けている、意味のない歯車だ。

 

 

 ただ、よく考えるんだ。

 

 何も考えずに生きるなら、動物だってできる。人間である必要はどこにもない。

 

 考えることが、人間らしさなんだ。

 

 

 考える……。

 

 僕は自分の判断で、この山奥に来た。時折寂しくなることはあったが、その寂しさすら、僕の望んでいた感情のうちのひとつでもあった。

 彼は、そんな僕の唯一の友達だ。月に一度、文通をする仲。彼は人の住む街に住んでいた。彼にも僕と同じような厭世的な面はあったが、僕ほど吹っ切れてはいなかった。

 

「俺はもう少し、西に向かう」

 それが、彼と顔を突き合わせて話した時の最後の言葉だ。定住を選んだ僕と違って、彼は探し続けることを選んだ。彼の求める理想郷は、極めて珍しいものだったからだ。大学で退屈な地理学を専攻していた僕にも、彼の希望にかなうような土地がどこにあるのかわからなかった。

 

 それでも、僕は彼を止めることはしなかった。僕と彼が友達だったからだ。彼なら、必ずどこかで、彼自身の理想郷を見つけると信じていた。

「頑張ろうな、お互いに」

 厳しい旅になるだろう。その道中で、彼は命を落とすかもしれない。

 彼と別れるのは辛いことだ。彼は僕にとっては唯一の、心を打ち明けられる友達だったからだ。

 

 だが、僕は彼の行く手を阻むことはしなかった。もしかしたら、彼が命を落とすことすらも、僕らの友情の結晶なのかもしれないのだ。

 

 

 それでも俺の住む街に来たいっていうなら……。

 

 

 僕は墓標の前に立っていた。墓石には彼の名前が刻まれている。

 彼の言っていた通り、この街の雨はとても冷たい。身体に染み入るような雨だ。傘をさしていなければ、外を出歩くなんてとてもできない。

He is……

 僕の後ろにいた少女が、僕に何かを話しかけた。彼女は僕をここまで案内してくれた、現地の子供だ。言葉の最後は雨音に遮られて、聞き取ることができなかった。

All right.

 僕は拙い英語で少女に答えた。少女は僕の言葉が聞こえたのか、何も言わずに傘で顔を隠した。

 

 

 結局のところ、僕はどこまでも人の手から逃れることはできなかった。毒のある山菜を食べて脱水症状に苦しむ僕を助けたのは、いつも彼の手紙を届けてくれた郵便局員だったからだ。

 

 気がついた時、僕は病院のベッドの上にいた。何もかもが白い病院……。

「私の通る山道で倒れてなかったら、危なかったですね」

 郵便局員の彼はそう言って、僕に届けるはずだった手紙を渡した。それはいつもの便箋ではなく、一枚の葉書だった。その葉書が、彼の訃報だった。

「あて先が全部見慣れない言語で書かれてるので、苦労しましたよ。ケチュア語らしいですね」

 ケチュア語……どこの国の言語かすらわからない。ただわかるのは、彼がそんなところまで行って、そして死んだということだ。

「いつもの人以外にも、お友達がいらっしゃるんですね」

 僕は彼に感謝の言葉を伝えた。そして彼が部屋を去った後で、声を上げないようにひっそりと涙を流した。それは決して、彼の死が悲しかったわけではなかった。

 

 

Shall we?(そろそろ行こうか)」

 僕はうつむいたままの少女にそう話しかけた。彼女は僕の言葉を聞くと、傘の下から覗き込むようにして僕を見た。

Satisfied?(もういいの?)」

Yeah.

 僕と少女は身を寄せ合うようにして、彼の墓の前を離れた。僕は考えに考え抜いて、この街までたどり着いた。確かにここはいい街だ……。

 だけど、僕が住むにはいささか寒すぎる。僕はもっと、きちんと生きることのできる場所へ戻らなくてはならない。

 

crying?(泣かないの?)」

 空港での別れ際、少女は僕に聞いた。

forgotton.(忘れてたよ)」

 少女はあまり納得のいかない顔つきで、エスカレーターに乗った僕に手を振った。僕は誰かに見送られるというのが初めてだったので、咄嗟に手を上げることができなかった。気がついた時には、もう少女の顔は見えなくなってしまっていた。

(RKTY’s 坂上稜線)

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