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いつの日か何処か遠くの【後】(坂上)

この記事は約18分2秒で読めます

 

 その日、彼の夢を見た。

 

 僕と彼は高校生だった。懐かしい、青いワイシャツの制服を着て、どこかの砂浜の上に二人で立っていた。彼は波打ち際に立っていて、静かな声で僕の名前を呼んだ。僕は自分の名前を呼ぶ男が、死んでしまった彼だと気付くまでに少し時間がかかった。なにせ最後に会ってからもう二十年近く経っているのだ。僕は砂浜に足を取られないように、一歩ずつ彼のいる方へ近づいていった。

「気をつけろよ」

 彼は僕にそう言った。海は驚くほど静かだった。よく見てみると、海には一切波が立っていなかった。風で水面が揺れることもない。果たしてそんなことが起こりうるのだろうか? 海はまったく死んでしまっていたのだ。

「波がない」と僕は言った。それは彼に向けてというよりも、ただの独り言のようなものだった。

「待ってたんだ」

 彼もまた同じように、そう呟いた。それは本当に小さな声で、唇の動きもほとんどなかった。

「僕を待ってたのか?」と僕は彼に聞いた。彼は自分の言葉を聞かれていたことに驚いたような顔をしてから、首を横に振った。

「違う、そうじゃないんだ。ただ待っていただけなんだ」

 次第に彼の足元に水が押し寄せてきた。靴が沈み、海水が脛を覆った。おかしいな、波は無いのに……と思っていると、海自体がどんどん広がっていることに気がついた。海面は相変わらず金魚の死んだ水槽のように穏やかなままだったが、確かにそれは彼を、そして僕をも飲み込まんと膨張していった。僕は慌てて海から逃げ出した。しかし身体にまとわりつく潮の臭いが、僕の動きを鈍くしていく。四肢の間接が錆びてしまった金属のように軋み始める。恐ろしく静かで暗い海が、僕の足元を捉えた。

「もう少し、待っているよ」

 彼は同じ場所に立ったまま、海にのまれ始めた僕を見ていた。彼の身体の大半は既に海に沈み、肩から上までしか地上に出ていなかった。僕は思わず逃げろ、と声を上げた。そこから動いて、地面を踏みしめて逃げるんだ。

(待ってる)

 その時に僕の頭に響いたのは「彼」の声だった。耳の鼓膜を揺さぶる音ではなく、直接脳を揺さぶる「彼」の声。僕が次に何かを言おうとした瞬間、夢の糸はほつれていった。

 

 

 僕は彼の死について、もっと多くを知らなければならないと思った。「彼」は、僕が彼の死を知った直後に現れた。それは単なる偶然かもしれない。

 しかし、偶然も事実には変わりない。どのような確率で、どのような経緯であるにせよ、現実に起こったことなのだ。それらの事実を、なにもわからないまま自分の記憶の奥底に埃をかぶせて放っておくわけにはいかなかった。

 

 手始めに、彼の死について書かれた文献を探すことにした。なにせ十年近く前の記憶だ。間違った印象を事実の記憶として刻み込んでしまっている可能性がある。

 といっても、有名人でも何でもないただの一般人の死だ。インターネットで彼の名前を検索してもそれらしき記述はどこにもなかった(あるいはリンク切れのニュースサイトしかなかった)。当時の新聞記事を見てみても、彼の住んでいた地域の地方版の片隅にしかその事件は書かれていなかった。そこにははっきりと彼の名前と、交通事故で死亡した旨(飲酒運転とは書かれていなかった)、そして電柱に激突して前面が痛々しく凹んでしまった車の写真が載っていた。

 しかし、それは僕が当時目にした新聞記事とは違うように見えた。どの新聞を買ったのかは覚えていなかったが、少なくとも事故現場の写真が載っていた記憶はなかった。もっと淡々と、事故の事実だけが書かれていたような気がするのだ。

 

 あるいは、それは単なる記憶の混乱かもしれなかった。じっくりと記事を読みつくしたわけでもないから、記憶の内容に多少の齟齬があるのは当然かもしれない。でも僕にとっては、それらの記事はまったく別のものだった。

 

 知り合いの編集者にも声をかけてみた。新作の資料として、過去に起きた交通事故のその後が知りたい、ひいてはこの事件について記述してある文献を探してくれないか……。その若い編集者は嬉々として記事を探し回った。

 

 僕は嘘を吐いていることに対して後ろめたい気分になった。だが、彼を探していることを誰かに話そうとは思わなかった。洗いざらい打ち明ければ、この編集者も、僕の友人も、彼女だって何かを手伝ってくれるだろう。実利的なことはなくても、応援はしてくれるはずだ。それくらい僕は周りの人間のことを信用している。

 ただ、これはあくまでも僕が一人で解決しなければならない問題でもあった。僕一人の手で、という意味ではない。彼は僕に向けて何かを伝えようとしていた。僕だけに向けて、だ。僕と彼は親友ではなかったが、僕達二人だけの間に形容しがたい「何か」が存在していたことを、僕は認めざるを得なかった。その間では、どんな親密なものもただの不純物に過ぎなかった。僕は彼らとの親密さを、そうした形で失いたくはなかったのだ。

 

 

 一週間後、編集者は二つの新聞の切り抜きを持って僕のもとへやって来た。切り抜きの一つは僕が見つけたものと同じ(事故現場の写真が載っているものだ)、もう一つは初見の記事だった。僕が八年前に見かけた記事はなかった。編集者は待ち合わせたファミレスのテーブルに新聞の切り抜きを置き、事件の顛末を仔細に教えてくれた。

 この事故は運転手(死んだ彼だ)の不注意ということで警察と遺族の間で完全に終結しており、遺体の司法解剖のようなものも行われなかった。どれだけ彼の部屋をひっくり返しても遺書のようなものは見当たらず、また事故の直前に心身を喪失していたような素振りもなかったことから単純な事故として処理された。事故の原因が原因だったので、葬儀もひっそりと行われた。一人息子を不慮の事故で失った両親は深く悲しみ、事故の三年後に父が胃を悪くして病死、残された母も精神を病んで実家の広島に戻っている。というわけで彼の家族が暮らしていた一軒家は現在は誰も住んでおらず、廃墟のようになっている。また彼の骨を墓に入れた記録はなく、恐らく母親が実家に持って帰っているのだろう……ということだった。

 

 事件そのものについては、記事に載っている以上の情報はなかった。彼の家族の末路は僕が想像していたよりも悲惨だったが、気の毒に思う以上の感情は湧き上がらなかった。むしろ僕が気になったのは、彼の住んでいた家が廃墟のまま現存していること、彼の遺骨が墓に入っていないことだった。

 僕は編集者から彼の住所を聞き、手帳にメモした。住所は高尾の山奥だった。編集者は「あんまり近づかない方がいいと思いますけどね」と付け加えた。

「念のため、実際に足を運んで見に行ったんですよ。センセイに適当なことを言うわけにはいきませんからね。で、いつもの仕事終りに最寄り駅に着いたんです。もう辺りはすっかり暗くなっていたし、高尾は一応東京都ですけど、町の作りはまんま田舎ですからね。タクシーに乗っていくことにしたんです。住所をそのまま伝えると怪しまれるかもしれないから、目的地の近くにあった病院まで連れて行ってもらって、そこから徒歩で行きました。何に関しても、用心するに越したことはないです。街灯もほとんどなかったから、スマートフォンの灯りで辺りを照らして進みました」

 そこで編集者は一度話を区切り、タバコを取り出して口にくわえた。それから僕達が禁煙席に座っていることを思い出して、しぶしぶくわえたタバコを箱に戻した。

「どこまで話しましたっけ……そう、歩いていったところまでですよね。小さな灯りを頼りに。病院からその家まではそんなに離れていませんから、歩いて五分くらいで着きました。入り組むほど、たくさんの建物があるわけでもないですからね。表札もしっかり確認しました。文字はかなり掠れてましたけど、確かに記事に載っていた人間の苗字が書いてありました。門は固く閉じられていました。乗り越えようと思えば乗り越えられる程度の高さの門でしたけど、ヘンに足を突っ込んで掬われるのも嫌だったので、それはやめておきました。なので門の外からスマートフォンの灯りで家を照らして見てみたんです」

 編集の彼は机を指でとんとんと叩き始めた。

「確かに家はかなり荒廃していました。庭の雑草は誰も刈っていないから荒れ放題だし、目につく窓は埃ですすけてぼやけていました。いくつか割れている窓もありました。明らかに人が住んでいるものではなかったです。じゃなきゃ、あんなに廃れるわけがない。家というのは車と同じで、人の手が入らなければどんどん悪くなっていくものなんです。でも、なんだか人の気配がしたんです」

「人の気配がした?」と僕は聞いた。

「いや、人の気配のようなもの……ですね。だって人が住んでいるはずがないんですから。最初は動物か何かが住み着いてしまっているのかな、とも思いました。山奥ですし、窓が割れているということはそこから出入りできる動物がいてもおかしくないですからね。でも、俺が感じたのは……もっと強い意思を持った、動くものだったんです」

 僕は飲みかけのコーヒーを飲んだ。冷めたコーヒーは何の味もしなかった。

「センセイが霊感とか、そういったものを信じているかは存じてないですけども……俺個人の意見を言わせてもらえば、あの家には近づかない方がいいと思いますよ。悲しい末路を辿った一家。それで決着にしましょうよ」

 

 

 僕は編集の彼と別れて帰路についた。ちょうど帰宅のラッシュと被ってしまい、電車はスーツ姿の人間でいっぱいになっていた。僕は乗車待ちの列に並びながら、編集の彼が言っていた言葉を思い出していた。

 

 人の気配のようなもの。

 

 それは具体的な名前を与えられず、今はまだ宙に浮いたままになっている。だが、それが指しているものは一つしかなかった。編集の彼はそれに対して恐怖という感情を抱くだけだったが、僕にはもっと別種の感情が湧き上がった。希望、達成、親密……。間違いない。彼はそこにいるのだ。そして恐らく、僕を待っている。

 

 家に帰ると、オレンジ色の留守電のランプがちかちかと点滅していた。留守電には彼女の声が入っていた。

「今週の日曜日、時間は空いてる?」

 彼女は僕が携帯電話(あるいはスマートフォン)をあまり好き好んでいないことを知っていて、よほど緊急の連絡でなければこうして家の電話に連絡を入れるようにしているのだ。彼女は初めは面倒がっていたが、いつの間にか「昔の映画みたいで楽しい」とすっかり慣れ親しんでしまっていた。

 僕は電話を返そうとして受話器を手に取る。今週の週末は……と考えたところで、思考が止まった。頭の中が空っぽになってしまったのだ。疲れているのかな、と思ってもう一度週末について考えてみる。今日が水曜日で、金曜日が締め切りのエッセイがあるから……金曜日まで、あと何日あるのだ?

 僕はカレンダーを見て、実体として曜日の感覚を頭に叩き込む。しかしどれだけ眺めても、曜日の持つ意味が頭の中に入ってこない。土曜日や日曜日といった概念が存在することは理解できるのだが、それを自分の中に実感として落とし込むことができなくなっていたのだ。木曜日の次は金曜日、その次は土曜日……オッケー、間違いない。じゃあ今週の土曜日は、木曜日の次の日か?

 僕は電話を諦めて、受話器を元の位置に戻した。そしてソファーに横たわり、目を閉じた。確かに、僕は疲れていないとはいえない。だが思考を乱されるほどの激しい疲れではない。それに曜日の感覚を掴めなくなる、なんてことは初めてだった。他の事はきちんと考えられる。経験で培った物書きのメソッドも、たまに自炊する時の調理の手順も、ちょっとだけ練習した「イエスタデイ」のギター・コードも。曜日だけが、僕の頭からすっぽりと抜け落ちてしまったのだ。

 少なくとも今日の朝はそういうことはなかった。物書きというのは時間がルーズになりがちな職業なので、せめて日にちだけはきちんと把握しようと努めているのだ。毎朝、冷蔵庫に貼ってあるカレンダーで日程の確認をするのは僕の数少ない日課だ。そして朝の段階では特に不自然に思うことはなかった。

 ということはつまり、僕に変化が訪れたのは編集の彼から「例の話」を聞かされた後だ。

 

 具体的に彼の家の話が、僕の精神にどういった影響を与えたのかはわからない。僕は彼の家がまだ残っていることを聞いて、そして(恐らく)彼が僕を待っていることを知って、嬉しく思ったのだ。それが、僕から曜日の感覚が消滅することと何の関係があるのだろう?

 

 今の僕は何よりもまず、彼に会わなければならないのだろう。

 

 

 翌日、僕は編集からもらったメモを持って高尾に向かった。日の明るいうちに行こうと思っていたが、その日は朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。

 僕は編集の彼と同じ手段を用いて、駅前でタクシーを掴まえて近くの病院で降ろしてもらった。不用意に怪しまれないように、小奇麗な格好をした。運転手の男性には「お見舞いですか?」と聞かれた。

「そうです。叔父が入院してまして」と僕は嘘をついた。

「それはそれは。私も胃をやられてましてね。医者にはいつも口酸っぱく注意されてます」

 僕は適当に相槌を打った。その後、料金の清算を終えてから、彼の父親も胃を悪くして死んでいたことを思い出した。

 

 雲が空を覆っているとはいえ、スマートフォンの光に頼らなければならないほど暗くはなかった。それよりも僕を悩ませたのは濃い霧で、傘を差していても衣服に付着する水滴がたまらなく不快な気分にさせた。たまにしか着ないスーツなのに、またクリーニングに出さなければならない。

 

 編集が言っていた通り、彼の家にはすぐに到着した。それは住宅街の片隅にひっそりと佇んでいた。錆び付いた門、荒れ果てた庭、ひび割れた外壁……廃墟だ。霧によって輪郭がぼやけて見えるせいで、それはある種の神秘的な雰囲気さえまとっているように見えた。まるで映画のワンシーンみたいだ。どこかで撮影スタッフが霧を撒いているのだ。

 僕は、編集の彼が感じたという「気配」を見つけるため、しばらく門の外から家の中を眺めていた。ほとんど人通りはなかったし、隣の家だって廃墟のようなものだった。怪しまれるようなことはないだろうと思ったのだ。実際、僕は家の前をうろうろしながら三十分ほど過ごしていたが、人とすれ違うことは一度もなかった。ずっとそうして霧の中にいると、まるで自分が夢の中に迷い込んでしまったような気分になった。知らない土地で、手応えのないものを見ているせいだ。

 

 「気配」は、なかなか僕の前には現れてくれなかった。家の中で何かが動くようなこともなく、時たま正体のわからない鳥の鳴き声や、雨粒が何かに当たる音がする以外は何の変化もなかった。そしてそれらは驚くほど自然で、耳障りなノイズに感じるようなこともなかった。

 

 もうしばらくしてから、僕は痺れを切らして家の中に入ってみようかと思うようになった。この程度の高さの門なら容易く越えられるし、たぶんどこかに鍵のかかっていない入り口もあるだろう。確証はなかったが、確信があった。

 僕は逡巡した。一応、僕は社会的にそれなりの地位にいる。一流とはいえないまでも、名前を表に出して仕事をしているのだ。その名前に「不法侵入」という泥がついてしまっては、後々命取りになりかねない。

 しかしその迷いはほんの一瞬だった。それは僕の脳に刻まれた、理性という名の本能のようなものだった。僕は持っていた鞄を門の向こうに投げ入れた。僕の手を離れた鞄は宙を舞って、霧によって漠然とした存在と成り果てて、湿った地面に着地した。鞄が無事に門を乗り越えたのを見届けてから、僕は錆びた門に手をかけた。門は僕がこれまで触れた何よりも冷たく、ざらざらとして濡れていた。僕は何度か小さく飛び跳ねてバネのように勢いをつけてから、思い切りジャンプした。飛び越えることはできなかったが、なんとか右足が門に引っかかった。僕は足に力を入れて、少しずつ身体全体を門の上に持ち上げた。そして門の上に座るように態勢を整えてから、思い切って飛び降りた。それほど高くはなかったが、地面がぬかるんでいたおかげで転びそうになった。一息ついてから先に放り入れた鞄を探した。しかし鞄はどこにも見当たらなかった。

 霧が濃いとはいえ、門を越えるまでは確かに目に入る位置にあったのだ。僕は門との位置関係を把握しようとして、後ろを振り返った。錆び付いた門は外にいた時とはだいぶ様子が違って見えた。それは、簡単に乗り越えることのできるただの障害から、世界を二つに断絶する鋼鉄の檻のようだった。もちろん、現実にそんなことがあるはずがない。ただ見え方が違うというだけのことだ。これが現実であるならば。

 

 僕はひとまず鞄を諦めて、家の中に入ることにした。鞄は今必要なわけではないのだ。帰るときにあればいい。

 玄関はガラスが割れてボロボロになっていたが、大人一人が通れる隙間はない。念のため扉を押したり引いたりしてみたが、きちんと鍵がかかっていた。蹴破るくらいのことはできそうだったが、あまり不必要に大きな音を立てるのも嫌だったので他の方法を探すことにした。選択肢のうちの一つだ。①玄関を蹴破る。

 僕の胸くらいまで高く育った雑草を掻き分けて、次に見つけたのは勝手口だった。なぜか扉の色が外壁と同じだったので、危うく見逃しそうになった。ドアノブを回して扉を押してみる。鍵はかかっていなかった。しかし中で何かがつっかえているらしく、扉は僅かな隙間しか開かない。何度か力を込めて動かしてみたが、隙間はちっとも広がらない。激突する時の固い音からして、何度も扉をぶつけてつっかかっている何かを壊すのは難しそうだ。②勝手口を破壊する(あまり現実的ではない)。

 なかなか難しいな、と思ってふと顔を上げると、勝手口の隣に長方形に広がる空洞があることに気がついた。たぶん窓ガラスが二枚、はめ込まれていたのだろう。どういう理由かはわからないが、現在はその窓を取り外されて、ロボットの口のようにぽっかりと空いていた。空洞は高い位置にあったが、両腕を伸ばせば淵に手がかかる。さっきの門と同じ要領で身体を持ち上げることは可能だろう。問題は、その空洞が家のどこに繋がっているのかわからないことだ。空洞はとても狭く、細身の僕の身体を縦に入れてギリギリ通れる程度の隙間しかない。門と違って態勢を立て直すこともできないから、頭から家の中に落下する形になる。仮に、その空洞の下が剣山になっていたら僕は串刺しになって死ぬことになる。無論、家の中に剣山が置いてあるようなことはないだろうが、誰もいないこの廃墟ではちょっとした怪我でも命取りになりかねない。それに僕の携帯電話は行方知れずの鞄の中にあるのだ。家の中に入るという点では最も現実的な選択肢だったが、その後の行く末に関しては一番危険な選択肢でもあった。③空洞に頭から入り込む(運が悪ければ死ぬ)。

 

 そして家を一周して門の前に戻ってきた。選択肢は三つだ。玄関を蹴破る、勝手口を破壊する、そして地獄の口の中に突入する。二階から侵入する手も考えたが、いくらなんでも危険すぎる。瓦は霧で湿っているし、老朽化した瓦が大人一人ぶんの体重に耐えられるとは思えない。やはり三つのうちから選ばなくてはならない。

 たぶん、玄関を蹴破るのが一番安全だろう。普通の家は玄関から入るようにできているし、もし家の中が迷路のように入り組んでいたとしても玄関を見失うようなことはないだろう。

 だが、僕はどうしても最後に見た空洞を忘れることができないでいた。他の出入り口は固く閉ざされているのに、あそこだけはぱっくりと開いているのだ。まるでなにかを待ち構えるように。そもそもこの家が普通だなんて保障がどこにあるのだ? 玄関の向こうがいきなり風呂場になっている可能性だって、僕らの世界には横たわっているのだ。

 

 

 僕は空洞の淵に手をかけて、左右に動かしてみた。空洞の淵からざらざらとした砂利がこぼれ落ちてきた。ガラスの破片のような、致命的な危険物はないようだ。僕は両腕に力を込めて、さっきの門と同じように身体全体を持ち上げる。身体をねじ込む隙間が狭いので、なかなか難しい。それでもどうにか上半身を家の中に入れることに成功する。

 

 家の中は真っ暗だった。それも生半可な暗闇ではない。黴くさい空気が僕の鼻を刺激する。目を暗闇に慣れさせようと、しばらくそのままの態勢で耐えていたが、どれだけ時間が経っても暗闇は暗闇のままだった。僕が落下する先に何があるのかさえ、目にすることができなかった。

 僕は先の見えない暗闇に怯んだ。どれだけ目を凝らしても、これから自分がどういった場所に放り込まれるのかもわからないのだ。そんなことが起こりうるのか?

 しかし、と僕は思った。ここで引き返しても、他にまともな出入り口はないのだ。玄関を蹴破るのが最も賢明に思えたが、ガラスが割れる音は想像以上に響く。いくら隣の家が廃墟のようだからといって、誰かの耳に届いてしまう可能性は否定できない。一度、誰かに気付かれたらもうお終いなのだ。次に霧が辺りを目隠ししてくれるのがいつかなんて、誰にもわからないのだ。

 僕は意を決して、家の中に転がり込んだ。何とか身体をひねって背中から着地するようにしようとしたのだが、床は思ったよりも近く、僕は右腕を下にして側面から床に激突した。衝撃が身体を伝わっていく。床はぬるりとしていて、湿った感覚が服を通じて皮膚に伝わってくる。僕は慌てて立ち上がり、床に激突した身体の部位を手でさすってみる。床の何かが服に付着して気色悪い感触がしたが、何か鋭いものが刺さったり、打撲をしたような感じはなかった。僕はひとまず安心して、自分が入ってきた空洞を見上げた。外は霧のせいで相変わらず暗かったが、家の中から見るととても明るく見えた。この家では、あの長方形の空洞だけが唯一の出入り口なのだ。僕はその形を目に刻み込む。あれを見失ってはいけない。

 

 いざ家の中に入り込むと、全貌はわからないまでも、ある程度は辺りを視認できるようになった。微妙な光の加減で、そこに道が続いていることがわかった。僕は左手で壁に触れながら、一歩一歩ゆっくりと進んだ。何かにぶつからないように、一歩進むたびに空いている右の手で正面を探った。それは明るい場所で見たらさぞ間抜けに見えるだろう。だがその時の僕は必死だった。たまに家具か何かに手が触れて、叩いて床に落としてしまうことがあった。床は例外なくぬるりと湿っていて、何かが床に落ちても、壊れる音がすることは一度もなかった。ぬるりとした何かに衝撃を吸収されてしまうのだろう。

 僕はいくつか扉を開けてもみた。どの部屋も例外なく暗く、また黴と埃によって侵されていた。具体的な構造は見えなかったが、だいたいどういった部屋なのかはわかった。大きなベッドが置かれた寝室、四方を本棚に囲まれた書斎、ダンボール箱が積まれた用途のわからない部屋……。そのどれもが、人の温もりから逸脱していた。辺りが暗く、少し人の手から離れただけで、ここまで異種のものに変貌してしまうのだ。足が震え、呼吸が浅くなった。暗闇は僕の心臓の鼓動を不必要に誇張させた。僕は「あるべきはずのものがない恐怖」を、身に染みて感じ取っていた。

 

 そして彼は……彼はどこにいるのだ? こんな場所に長居していられるはずがない。彼は僕を呼んでいるのだ。赤の他人の、編集の彼が感じ取った気配は、どこにあるのだ?

 僕は階段を上がり、二階に向かった。途中で階段を踏み外してしまい、危うく下まで落下しそうになった。こんなところで怪我をして動けなくなったら終りだ。それは家の外に居た時よりも、リアルな感覚として理解できた。僕は今、不自然な場所に立っているのだ。本来なら入る必要のない場所。ずっと記憶の奥底に放り込んでおけばよかったもの。

 だが、僕はそれを間違っているとは思わなかった。それどころか、奇妙な確信と自信が、血液のように僕の身体を駆け巡り、身体を突き動かしていた。足の震えは止まらない。吐き気もする。このままうずくまって眠ってしまいたい。その時の僕はまさに確信と自信によって立っていたのだ。僕は何かを思考する余裕もないまま、二階に上がって最初の部屋の扉を開けた。

 

 

 そして彼はそこにいた。

 

 

 あるいは、それは僕の精神が極限に達したために生まれた幻想だったのかもしれない。とにかく次に僕が目覚めたのは、一階の寝室のベッドの上だった。ベッドにはきちんと布団が敷かれていたが、ひどい黴の臭いがした。身体を起こそうとすると、頭痛が僕の頭を襲った。寝すぎた時の頭痛だ。

 そこは確かに廃墟の家だった。長方形の空洞から潜り込んだ、彼の住んでいた家だ。しかし僕の最後の記憶――二階に上がって、扉を開けた――と比べると、いくぶん様子が違っていた。まず第一に、部屋が明るかったのだ。赤い光が部屋の隙間から際限なく差し込み、部屋全体を染め上げていた。光に照らされた部屋はみすぼらしく、僕が感じていた不在の恐怖はどこかへ消え去ってしまっていた。

 そして僕が常に感じていた床のぬるぬるとした感触はもうどこにもなかった。床は汚れてはいたが、どこを探し回ってもそのぬめりは影も形もなかった。今あるのはフローリングの床の固い感触だけだった。

 僕は自分の身体を見てみた。服はだいぶ汚れていたが、怪我をしたような跡はどこにもない。僕はいつの間にか気を失って、寝室のベッドで寝ていたのだ。何か夢を見たような記憶もない。扉を開けた後で、完全に意識がシャットアウトされているのだ。いや、扉を開けた後、僕は何かを見た。見た後で意識が飛んだのだ。僕はいったい何を見たのだ? あの部屋で……。

 

 僕はもう一度その部屋に行ってみることにした。家の中はすっかり明るくなっていたし、足を滑らすぬめりも既になくなっていたので、特に恐怖はなかった。

 二階に上がってみると、僕が最後に開けた(と思われる)扉は開け放たれたままになっていた。どこかの窓が開いているのか、扉は風でかたかたと揺れていた。そして赤い夕陽が部屋から放射状に広がっていた。僕は部屋の中を確かめるため、その夕陽の日差しの下に立った。

 

 部屋はがらんどうだった。この部屋だけがまるでモデルルームのように整然としていて、荒廃しきった家の中で異彩を放っていた。誰かが綺麗に掃除しているみたいじゃないか。この部屋だけは黴の嫌な臭いもしなかった。天井にはかつて電球があったと思しき穴だけが空いていた。

 僕は直感的にこの部屋が彼のものだと感じた。彼が高校卒業後、どういった私生活のかはわからない。断捨離のごとく物をどんどん捨てていったのかもしれないし、彼の死後に両親が整理したのかもしれない。だが僕にはわかった。彼は待っていたのだ。ずっと、一人で。僕はそれに気がつかなかった。僕は彼を引っ張りあげてやることもできた。あるいは背中を押すことも。

 

 でも僕と彼は親友じゃなかった。それに気付くには、僕らは共有する時間が少なすぎた。僕らは一人でいる方が気楽だったし、寂しいと思うこともなかった。自分達が今いったい何を欲しているのか、理解することができなかったのだ。

 時間が解決してくれることもある。しかし、時間が待ってくれるとは限らない。事実がわかるのは、すべてが終わった後ということもある。事実は真実ではないかもしれない。それでも、事実は事実なのだ。それが偶然だとしても、過去のことだとしても。

 

 

 僕は夢を見ていた。起きた時には忘れてしまう……はかない夢だ。

 

 僕は彼と向かい合って、砂浜に立っていた。この前とは違い、海には小さな波が押し寄せていた。ウミネコのにゃーにゃーという鳴き声も聞こえる。

「久しぶりだ」

 先に口を開いたのは彼だった。

「待っていたんだよ」

「何をだろう?」と僕は聞いた。

「ずいぶんと長い間、待ち続けていたんだ」と彼は答えた。

「そうしているうちに、自分でもわからなくなった」

 僕がそう言うと、彼は驚いた顔をした。

「僕にそう言われるのは、意外だった?」

 彼は顔を伏せて、肩を静かに震わせた。僕は彼が顔を上げて口を開くのを待った。僕はそこで待ったのだ……。

 

 

 これは僕の想像だ。

 

 彼の死は事故に見せかけた自殺だ。酒を飲んで交通事故を起こせば、まず自殺は疑われない。普段そういう素振りがなく、まして遺書の一つも見つからないようであればより確かだ。

 彼が自殺を選んだ理由はわからない。でも、僕にはどうしても彼が交通事故という死に方をするとは思えなかったのだ。

 

 そしてたぶん、僕が当時目にした新聞記事は……まったく別の、知らない人間の記事だったのだろう。似たような名前の、同じ歳の人物。僕はそれをきちんと確かめもせず、彼が死んだと思い込んだのだ。赤の他人の死を、彼の死と思い込んだ。そして事実、彼は死んでいた……。

 

 彼の遺骨は、まだあの家にあるだろう。彼の母親は持って行ってなんていない。探せば、床下とかにしまってあるのかもしれない。でも、それを見つけたとして、僕はどうすればいいのだ? 僕と彼に必要なのは……必要だったのは、同じ時間だった。全て昔のことなのだ……。

 

 

「わからないことばかりなのね」

 彼女は僕にそう言った。

「気にならないの? 本当のことが」

 僕は少し考えてからこう言った。

「気になるよ。でも、真実と事実は違う。僕が知りたいのは真実であって、事実じゃないんだ」

「ふうん。……よくわからない」

「そういうものだよ」

 

 

 あの後、一度だけ「彼」がやって来たことがある。夜に一人で仕事をしていた時のことだ。ふとキーボードから手を離して、窓の外の月を眺めていた時、「彼」が話しかけてきた。

(物を書くのは、楽しいかい?)

 僕は咄嗟にこう答えた。

「楽しいよ。僕だけの真実を、皆と分かち合える」

 そして「彼」は去っていった。ほんの一瞬の、短い友情だ。

(RKTY’s 坂上稜線)

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