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いつの日か何処か遠くの【前】(坂上)

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 彼の訃報を知ったのは、新しい小説のための取材の帰りのことだった。新幹線で読んでいた朝刊の小さな記事には彼の名前、そして彼が車を運転したまま海に転落して溺死したことがはっきりと書かれていた。自殺のようにも見える事件だったが、彼の死体からアルコールが検出されたこと、遺書や自殺を仄めかす行動を取っていなかったことから飲酒運転の事故として処理されていた。

 僕は初め、記事を鵜呑みにすることができなかった。彼は真面目な善良市民ではなかったが、、そんなつまらない違反を犯すような人間ではなかったからだ。ましてやそれで命を落とすなんて間抜けすぎる。

 僕はいたたまれなくなって窓の外に目をやった。東京に戻る新幹線の外の景色は、まだのどかな田園風景の模様を呈していた。田んぼの間の細い道を小さなトラックが行き来している。灼熱の太陽の下で、老人がしゃがみ込んで農作業をしている。そして無造作に突き刺さった看板の広告――すべての情報が、無感情に僕の目に映っては消えていった。

 

 

 彼の死が僕にもたらしたのは感慨と思い出だった。僕と彼とは、無二の親友という間柄ではなかった。高校の同級生だったが、お互いのメールアドレスも知らなかった。家の方向も違ったし、部活も違っていた。休日に二人で遊んだ記憶もない。たまに世間話をして、学校から駅までの短い距離を一緒に歩いて帰ったくらいだ。卒業してからは一回も会っていない。僕は一度も同窓会に顔を出していないからだ。高校にいい思い出はあまりないし、昔を懐かしむには僕は少々有名になりすぎた。

 

 

 僕は家に帰って、汗に塗れた服も脱がずにソファーに横たわった。三日ぶりに入った部屋には不快な空気がこもっていた。部屋の窓を全部開け放って新鮮な空気に入れ替えたかったが、一度ソファーに横になってしまうと立ち上がる気力もなくなってしまった。そして死んだ彼……。僕は目を閉じて、彼のことを思い出そうとした。

 でもそれはなかなか上手くいかなかった。彼の顔は思い出せる。しかしどんな声や仕草をしていたのかまったく思い出すことができない。なんとか記憶の紐を手繰って想起したのは、「少し待とう」という一言だけだった。あれは……そうだ、台風が接近していた平日の朝だ。学校から休校の連絡がなかったので、必死に最寄り駅までたどり着いたのに、改札の外には守衛さんが立っていて、本日休校と書かれたプラカードを持っていた時のことだ。僕と同じように駅までやって来た生徒の中に、彼もいた。彼は僕を見つけると、大勢の人間でざわつく雑踏の中でもよく通る声で僕を呼んだ。彼は放送部にいたから、聞き取りやすい声の出し方を知っていた。もちろん、それに見合う努力と才能も持ち合わせていたのだ。

「少し待とう」――待つ? いったい何を待つんだ? 学校はもう休校なのだ。電車が台風で止まってしまう前に、一刻も早く自宅に帰らなければならない。

「わかってる。もう少しだけだよ」彼は改札の外を眺めながらうわごとのように呟いた。まだ風雨は弱かったが、黒い雲に覆われた空と湿った風は不吉な予兆を感じさせた。だから、いったい何を待つんだ……。

 

 その先を思い出す前に、僕は深い眠りについた。彼の夢は見なかった。

 

 

 目を覚ましたのは翌日の昼過ぎだった。昨日の二十時に東京に着いたから、半日以上は眠っていた計算になる。寝すぎた時に襲ってくる頭痛と、硬いソファーで横になったせいで痛む身体に苛まれながら、僕はゆっくり身体を起こした。

 幸い、今日は何も予定はない。取材で遠出した次の日は完全に休むことにしている。忙しい毎日は、取材の余韻をかき消すには十分すぎる毒薬だからだ。僕はシャワーを浴びてから、Youtubeでお気に入りのバンドの曲を流しながら冷蔵庫の中のヨーグルトを食べた。もっと朝早く起きれば簡単な朝食も作るのだが、さすがに今からじゃ遅すぎる。とりあえず外に出て昼食を摂ることにした。

 

 僕は歩いて近くの喫茶店にやって来た。チェーン店じゃない、ヤニとコーヒーの匂いでむせ返る昔ながらの喫茶店だ。正午はだいぶ過ぎていたが、ランチメニューには間に合った。僕はオムライスと食後のアイスコーヒーを頼んで、読みかけの文庫本を開いた。

(珍しいね、読書なんて)

 ふと誰かに話しかけられた気がして、後ろを振り向いた。しかし近くに僕を見ている人間は(店員も含めて)一人も居なかった。まるまると太った中年の女性がこちらに背を向けて座っているだけだ。

 気のせいかと思い、開きかけの文庫本に目を落とした。『僕らが旅に出る理由』――僕が大学生の頃に本屋で見つけた。表紙には桟橋に繋がれた浮き舟と夜空に佇む月が描かれていた。陳腐な取り合わせだ。

 内容自体は褒めるべき点の少ない、二三回増刷されたらそれっきりになってしまうような代物だ。文法だって不安定だし、一字下げのようなルールだって守られていない(どうして編集者は指摘しないのだ?)。なぜ僕がそんな本を何回、何十回と読み返しているのか……それは物語の終わり方があまりにも美しかったからだ。未だにこの作品以上に美しい終わり方をした物語を僕はまだ知らない。それは一般と区分するには非凡すぎる才能だ。ただ、それを味わうためには退屈な物語を三百ページ以上耐えなければならない。それは一部の物好き以外には苦痛を伴う作業だ。そして読書を作業と思ってしまった時点で、物語は一切の力を失う。事実、作者の彼女は『僕ら』の他に数冊のアンソロジーに寄稿しただけで文学界から姿を消してしまっていた。長編小説の終り際にだけ力を発揮する作家――そういう人間も世の中にはいるのだ。

(どういう風の吹き回しだろう?)

 まただ。僕は栞も挟まずに本を閉じて辺りを見た。

「お待たせしました」

 その瞬間に、喫茶店の店員が頼んでいたオムライスを持ってきた。僕は店員に会釈をして、横目で店内を見渡した。やはり、僕の知り合いはいない。店員の声も違う。そんなに形式ばった声色じゃない。もっと近しい、友人くらいの距離感のような……。

 そこまで考えて、一つの仮説が思い浮かんだ。まさかとは思うが……。

 

 僕は喫茶店でオムライスを食べ終えてから、食後の散歩に繰り出した。もともと小さな頃から街を歩くのが好きだった。自分の知らない土地は新しい発見に満ちていた。珍しい建築方式の家、人が立ち去って廃墟となった団地、シャッターの降ろされた商店街――そのどれもが、僕に感傷を呼び起こした。感傷こそが僕の創作の源だったのだ。

(相変わらずだね、即物的じゃない)

 喫茶店を後にしてからも、「彼」は僕に話しかけ続けた。僕は辺りに人が居なくなったのを見計らってから、立ち止まって彼の言葉に返事をしてみた。

「概念を言葉にする職業なんだ、小説家は」

 知らない街の住宅街の真っ只中で、僕は彼の返事を待ち続けた。しかしいくら待っても、彼の言葉は返ってこなかった。

(あんなところにバスケットシューズが落ちてる)

 「彼」の声は、僕が諦めてもと来た道を戻り始めた頃にもう一度聞こえた。僕はそれに対して「どこに?」と聞き返してみたが、やはり彼の返事はなかった。彼の言葉は全て自分ひとりで完結していて、僕がそこに入り込む余地なんて猫の額ほどもなかったのだ。

 

 じゃあなんで、「彼」の声が僕に聞こえてしまうんだ?

 

 

 「彼」の声はそれからしばらく続いた。それは時と場所を選ばずに僕の耳に響いてきた。自分ひとりで部屋に居る時なら別に構わないのだが、困るのは他人と一緒に居るときだった。一緒に居る人に話しかけられていると勘違いしてしまうのだ。おかげで何度か恥ずかしい目にも合った。そのことを「彼」に抗議したりもしたが、やはり「彼」には僕の声なんか届いていない様子だった。

 とはいえ、それ以外には特に不都合なこともなかったので、僕はしばらく「彼」との生活を楽しんだ。だいたい頭の中で他人の声が聞こえるなんて、医者に訴えたところで手持ち無沙汰になるのがオチだ。「彼」の言葉は基本的に無害だったが、時たま鋭い観察眼を披露することもあった。そして僕と意見が合うこともあった。そういう時は僕は少しだけ嬉しい気分になった。

 

 ある時を境に、「彼」の声がぱったりと止んだ。そこには前兆も予感もなかった。お昼過ぎに、なんだか今日は静かだな、と思って初めて気付いたくらいだ。僕は「彼」の消失については特に感慨を抱かなかった。もともと正体不明のなにかに過ぎない「彼」が消えたところで、僕が出来ることは何もない。

 そして改めて考えれば、「彼」の声は、飲酒運転で死んだ彼そのものだった。喋り方までまるで一緒だった。あそこまで皮肉っぽかったかどうかは覚えていなかったが、僕の記憶に居る彼は、「彼」とまったく同じ調子の喋り方だった(と思う)。

 

 するとますます、彼が飲酒運転なんかで死んだことが信じられなくなってきた。とはいえ、彼の死んだ記事を見てから既に半年が過ぎていた。もう葬式も終わってお骨だって墓石の下に眠っているだろうし、骨だけの司法解剖なんて出来やしない。「納得がいかない」という理由だけで、今さら警察に再捜査を頼むわけにもいかない。だいいち僕は赤の他人なのだ。高校を卒業してから一度も彼に会っていない。十年という月日は、人一人を変えてしまうには十分すぎる時間なのだ。

 僕はそうやって自分を説得して、彼を忘れることにした。二十九歳の冬の日の話だ。

 

 

 次に僕が彼を思い出したのは「彼」が消えてから八年後だった。その頃には僕はベストセラー作家とはいえないまでも、コンスタントに新刊を出す作家として出版社に重宝されていた。まだ独身だったが、結婚してもいいかなと思える十歳下の恋人が一人いた。ただ彼女は作家という職業に言いようのない不安を抱いているようで、何度も僕に作家に拘る理由を聞いてきた。

「なんだか作家って、現実を見れていない気がするのよ」

 それは梅雨の朝だった。僕らはホテルのベッドで抱き合い、どちらかともなく起きだして話をしていた。窓がなかったので外の様子はわからなかったが、しとしとと降る雨音が聞こえた。彼女はすぐに「あなたがそうだって言うわけじゃないのよ」と付け加えた。僕はわかってるよと答えたが、それが僕を指していることは明らかだった。彼女だって、そんなに作家とばかり付き合っているわけじゃないだろう。要するに僕に対する印象なのだ。

「現実を見ていないと、不便なことはたくさんある」と僕は答えた。

「歯磨きは出来ないし、フォークだってまともに持てない」

「ほら、そういうところよ」と彼女は言った。

「目の前にいるのは私でしょ? 誰と話してるの?」

「でも君は、僕のことじゃないって言ったよ」

「言葉のあやよ」

 あんまり腑に落ちない回答だったが、些細なことを突いても仕方がない。根源は彼女に対する僕の態度に起因しているのだ。

「じゃあ、今から会社員になったらいいかな」

「それも手ね。あなたが耐えられるならだけど」

 僕は少し考えて「無理だね」と言った。満員電車に乗りたくないから作家になったのだ。今さらそんな生活を送りたくなんてない。

「一番の問題は、あなたが私を第一に考えてくれないことね」彼女はそう言って、僕が顔をしかめたのを見て慌てて訂正した。

「責めてるわけなじゃないの。私は自分を立派な女だとは思っていないし、どう考えてもあなたに相応しい人間は他にもたくさん居る。だから人生の優先順位を私に割り振るのはあなたにとって損よ。勿体無い」

「僕だって大層な人間じゃないよ」

「話は最後まで聞いて」と彼女は言った。「私があなたの人生の中で二番目ならそれでいいし、三番目でも構わない。四番目だって。あなたの優先度がどの程度であれ、私に心を割いてくれるのはとても嬉しいのよ」彼女はベッドから抜け出して、ホテルの名前の入ったマッチを使ってタバコを吸い始めた。彼女の吐いた白い煙はつけっ放しだった空気清浄機の流れに乗って、部屋全体に広がっていった。

「生理が重くなるよ」

「わかってるわよ。自分の身体なんだから」

 タバコを吸う時にも足を組まないのは、彼女のいいところの一つだった。なぜだかあれだけでとても下品に見えてしまうのだ。

「それで……どこまで話したかしら」

「今日の朝ごはんをサンマルクのサンドイッチにするか代官山のホットケーキにするか」

 彼女はため息混じりにタバコの煙を吐いた。

「ねえ、あなたとは真面目な話はできないの?」

「苦手なんだよ。特に起き抜けは。せめてコーヒーを飲んでからにしてほしい」

 彼女は何も言わずにタバコをガラスの灰皿に乱暴に潰して消した。そして立ち上がってつかつかと洗面台に消えていった。しばらくしてからシャワーの流れる音が聞こえ始めた。僕は八つ当たりされたタバコに申し訳なく思った。そして僕はまた目を閉じて眠った。

 

 その日は夕方から出版社との打ち合わせがあったので、お昼ご飯を食べて別れることにした。彼女は普段どおりを装っていたが、言葉や行動の端々に僕に対する不満が見え隠れしていた。僕は彼女の好きなスパゲティの店にタクシーを向かわせたが、店は昼休みのOLで満席になっていた。

「ほら、サラリーマンなんてできっこないよ。満員電車だ」

 そこでようやく彼女は笑ってくれた。仕方がないので近くにあった定食屋に入った。こっちは男の会社員ばかりで、とても女の子を連れて入るような雰囲気の店ではなかった。別の店にしようか、と言うと彼女はここでいいと言った。僕は鯖の味噌煮、彼女は野菜炒めの定食を頼んだ。店内は箸が皿に当たる音と汁物をすする音、神棚に置かれたテレビから流れているニュースの事務的な音声で満ちていた。

「なんだか落ち着かないな」

「それはあなたがまともな証拠よ」と彼女は言った。なるほど、と僕は思った。落ち着いてご飯を食べている人間なんかここには一人もいないのだ。

 

 そして「彼」を思い出した。テレビで飲酒運転啓発のCMをやっていたのだ。僕は初め味噌汁をすすりながら何気なくテレビ画面を眺めていたが、CMの中で車が事故を起こす直前になってふっと彼の顔が思い浮かんだ。あまりに突然のことだったので、飲んでいた味噌汁でむせてしまった。咳き込む僕に注意を払ったのは彼女だけだった。

「どうしたの、突然?」

「いや、大丈夫……ごほっ」

「テレビに何か映ったの?」

「……なんでもないよ」

 ずいぶん長いこと忘れていた。いや、忘れようと努めていたのだから、正しい帰結だ。

 しかし、どうして彼が事故を起こす場面が思い浮かんだのだろう? 僕がそこに居合わせているはずがないのに……。

 

(続く)

(RKTY’s 坂上稜線)

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